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酒を止めるほど俺は堕落してはいない、屑鉄の中から鮟肝、俺の股間はいつもノーアウトフルベース、

七月十五日

「あんた、仕事は?」ウィルバーが尋ねた。
「この人、作家なのよ」ローラが言った。「雑誌に載ったりするの」
「作家なのか?」ウィルバーがおれに訊いた。
「まあ、ときには」
「書けるやつを探してるんだ。君はいい作家かい?」
「どの作家だって、自分のことはいいと思ってますよ」

C・ブコウスキー『勝手に生きろ!』(都甲幸治・訳 河出書房新社)

午後十二時四分。一年前のセナがシェイカーを鳴らしている動画を見てからトランプが銃撃される動画を見る。当てるならちゃんと当てろよヘタクソ、山上さんなんか自作銃で当てたんだぞ、とか思いながら紅茶&アルフォート五枚。アルフォートはセナの大好物でもある。「ファミリーサイズ」を開くとミルクチョコとリッチミルクチョコが混ざっているけど全部リッチミルクチョコでもいい。むかしピノのアソートパックを開くたび全部アーモンド味でいいよと思ったことをいま思い出した。昨夕、アオキで2.7リットルのトリスクラシックを約3100円で買った。

親の顔より見たアンクルトリス、

しかしポイント三倍の日にこういう「高額商品」を買うあたりがThe庶民だね。しみったれではなくちゃんとしているのだ。細かい金勘定とは無縁であることを「男らしさ」と取り違えているバカどもと俺を一緒にすんな。まだ梅雨は明けそうもないので晩酌は続けることにした。ただしロックグラス五杯目以降は必ずチビチビ飲みをする。二日酔い対策にもなるし酒代の節約にもなる。アル中の「今日から飲まない宣言」なんてこんなもんさ。セナもあのストーンフェイスのまま呆れてるだろう。でもきっと許してくれるだろう。菩薩だから。俺が惚れた男はみんな菩薩か天使になるんだ。

G・ガルシア=マルケス『百年の孤独』(鼓直・訳 新潮社)を読む。
一応の読了に一か月くらいを要した。応接間の棚に飾ってあるブランデーをちびちび舐めるようなこういう読みかたも嫌いじゃない。ただはっきり言って途中何度も苦痛を感じた。なんでだろう。翻訳文学だから、というのはきっと大きい。あるていど翻訳慣れしている俺でもやはりラテンアメリカの長編小説はちょっと疲れる。アルカディオとかアウレリャーノとか似たような名前の人物をつぎつぎ登場させるのはもはやハラスメント。言うまでもないがこの小説はそれ自体がひとつの巨大な冗談である。「文学は人をからかうための最良の道具」なのであり、だから読者は最初から最後まで作者に切れ目なくからかわれているということを自覚しながら読むべきなのだ。「どうでもいいこと」の細部描写はこの作者の癖なのだろうか。たとえばこういうやつ。

そのうち幻滅するだろうと信じた彼は、自転車を組み立てようともせず、左官たちが払った蜘蛛の巣からキラキラ光る卵を見つけ出すことに熱中し、それを爪で開いて、中から出てきた蜘蛛の子を何時間も拡大鏡でのぞいていた。

この小説を読むうえで、コロンビアあるいは南米の歴史的背景や政治的文脈を知ることも多少は必要なことなんだろう。じっさい作中に出てくるバナナ会社や民衆虐殺はあまりにも史実と関係があり過ぎる。でもそうした知識以上に読者に求められるのは「洒落が通じること」だろう。小説なんてのは大なり小なり「ふざけたもの」なのだということを読者が忘れてしまったとき小説は死ぬ。実は「生そのもの」がもっとも「ふざけたもの」なのだけど
このことを熟知している人はほんとうに少ない。どいつもこいつも野暮天ばかり。さあ今日はこのあとどうしようか。祝日らしいので図書館はたぶん開いている。でもあまり行きたくない。どうせ本を愛さぬ愚民で溢れ返っているだろうから。でも行こうか。明日休みだから今日は行っておこう。メメント森下翔太。セナLOVE。マスター、キノコの森。

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