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シンギュラリティ教、あるいはモンスター弱者、浴槽で飼おうコビトカバ、
瀬那十四年二月二十日
「単純にダサい」と初美が、言い足りなかったみたいにして急に続ける。「あいつら、ああいう人種、究極ダサい。思いません? なんでみんな似たような生きモンになるんやろ? いわゆる『成功者』ってみんなそう。うちの店に来るそういう人たち見てても思う。みんな似すぎてて、うんざりしますよ。カリスマなんて周囲が作るものです。実態は空洞。似たような生活スタイルに似たような台詞、おんなじ行動パターン、組み込まれた遺伝子パターンにちっとも抵抗しようとせえへん動物が、その空洞内にいるだけ。『霊長類ヒト科成金属』みたいな。・・・・・・どうかしました?」
午後十二時三七分。デモクラシータイムス「山田厚史の週ナカ生ニュース」を視聴しながらチンしたご飯、味付け赤貝の缶詰、コーヒー。なんで俺は毎回こんな元ジャーナリスト老人のお喋りと付き合っているのか。アクの強いコンテンツはきほん嫌なの。特に食事中は。外国の刑務所から流出した拷問動画なんか見ながら飯を食えるか。元彦問題は岸口県議も絡んだりしてもはや関心のない人間にとっては全体像を把握することさえ困難なことになっている。きのう爺さんが持ってきた読売の一面に「SNSと選挙」という連載記事があって、そのなかで政治系の「切り抜き動画」の制作を副業としている介護職員の男性が紹介されていた。求人サイトにはその種の製作依頼がけっこうあるようで、この男性の場合、「報酬額と作業量から時給1000円を下らないと判断すれば、応募する」らしい。「政治信条が合わなくても、内容が偏向していても、発注があれば受ける」。入力していて悲しくなってきた。そうだよな、みんな金欲しいもんな。それに介護職ってキツいわりには低賃金って言われてるもんな。そういえばさいきん俺のユーチューブでは石原慎太郎の定例記者会見動画(切り抜き)がやたら表示されるんだけどどうしてだろう。こいつのことマジで嫌いなのに短いのでときどき見てしまう(こういう「アンチ」による「嫌なもの見たさ」も動画の再生回数を押し上げる要因なんでしょう)。だから俺もけっきょくこういう信念なきショート動画制作者どもを儲けさせてる一人なんだよな。記事の最後で男性は「切り抜き動画を視聴する人は情報を吟味しない。こんな動画で投票先を決める方がおかしい」なんてメディアリテラシーの重要性を説く「良識派」みたいなことをほざいている。一般論的には投票に行くだけでも「マシ」なのかも知れない。石丸動画とか立花動画とかに感化される頭脳弱者も頭脳弱者なりの「政治意識」は持ってるからな。俺クラスの頭脳弱者(ネオ頭脳弱者)になるともう自分が「有権者」であることさえ忘れてるからね。凡庸な自己肯定的シニシズムからも見放されている。いまに「生きていてすみません党」なんて立ち上げかねないよ。政党じゃなくてテロ組織。弱者はモンスターにならないと生きられないんだ。だから弱者ってみんなそれぞれ違ったかたちで醜悪だろう? 「幸福な人間」はみんな似たり寄ったりだけど。って『アンナ・カレーニナ』の書き出しか。すまん、また教養が滲み出てしまったぜ。ともあれ政治系コンテンツの製作者が最初から想定消費者を軽蔑していることだけは確か。
菅付雅信『動物と機械から離れて AIが変える世界と人間の未来』(新潮社)を読む。
さらに、クラリファイは無料トライアルのAPI(注:Application Programming Interfaceの略。アプリケーションをプログラミングするためのインターフェイス)を開放しており、さまざまな開発者による「普通なら考えつかないようなアイデア」が披露されている。たとえば、ある野球好きの開発者は、野球スタジアムでボールが観客席のどこに飛びやすいかをソーシャルメディア上の写真から解析するサービスをつくり、それにGPS座標やヒートマップを組み合わせ、「スタジアムのどこに座れば、ボールを一番キャッチしやすいか」を明らかにするツールを開発したという。つまり、もはやホームラン・ボールをキャッチするのは、運がいいからではない。AIの計算による、「ホームラン・ボールをキャッチするのに適合した席」に座っているかどうかになるわけだ。
「AIは人間を幸福にするか」的な問いにはもう飽きてる。AIがあろうがなかろうが人間がどうしようもなく「不幸」であることには何の変わりもない。「地上」はいつだって苦痛や不快に満ちており、時に「楽しいな」とか「嬉しいな」とか「愛おしい人だな」なんて感じることもあるけど、「倫理的観点」からすれば今すぐ全ての「有感生物」は消滅したほうがいい。それによって「そのようにある」という現存在が消え去るとは限らない。「そのようにある」という存在様式が、「既存の科学的言語」が規定する生物学的存在様式とは全く無関係であると考えることも可能だから(私の見るところでは、「意識」について考えているほとんどの人間は「素朴な唯物論」に毒され過ぎている)。「(生物的)な死」によって「そのようにある」の苦痛から解放される、という「通俗的」な発想は、少なくとも私には不可能。(これは論考ではないので)ごく粗雑な言い方をするなら、私は、「世界」から「私」を捉えるのではなく、「私」から「世界」を捉えている。「私」というこの端的不可解な驚愕的現事実を、「科学」と呼ばれている「説明体系」に溶かしてしまうことは出来ない(「私」という経験は「私たち」という経験とはまったく別種のもの)。しかしいずれにせよ、「地上」の「有感生物」は出来るだけ早く消えたほうがいい。それによって、「そのようにある」というこの悪夢がどうなるのかは分からないが、それでも「今よりはマシ」だろう。やや不合理だけども、私は「そう信じる」。「生物の本性」とされているものを「たかが倫理的判断」によって否定することは難しい。「多勢に無勢」なのは分かっている。本のことを忘れてた。もうそろそろ「出勤」なんだよ。シンギュラリティ(人工知能が人間の知能を超える転換点)をめぐる世の言説を私はあまり信用しないけれども(技術への過剰期待は近現代人の悪癖)、特化型AIなどの発展による「職業代替」がこんご進むのは確実だろう。というかもう進んでいる。願望込みで言うなら進むべきだ。「セルフレジ」なんてまだまだ序の口。「AIには絶対に出来ないこと」系のお喋りにも私は飽きている。強いて言うなら「生きることにウンザリして鬱病になって終いには自殺すること」じゃないの? これも誰か言ってる? ごめん。もう疲れてるんだ。飯食う。いつも心に愛の下痢羅を。バチェラー共和国。
【備忘】グラムシのヘゲモニー論を整理、「人間本性に響かない思想は天下を取れない」、