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いくばくかの隣人愛、憐憫の情、目指すところは《人類の集団自決》、ああ無情、どろんぱ、神々の褥瘡、怒髪天、

一月二九日

認識の遅い人たちは、そもそも認識には時間がかかるのだと思い込む。

F・ニーチェ『喜ばしき知恵』「第三書」(村井則夫・訳 河出書房新社)

午前七時四八分。リプトン紅茶を飲みながら。調子はあまりよくない。布団から出るのにも大変な英雄的覇気を要する。生きることの面倒臭さをたまたま理解し過ぎてしまった「悲劇の人」がここにいる。あまりにも非凡な、しかし堕落した「悲劇の人」がここにいる。恥ずかしいからそれ以上は書くな。誰でも内心では自分の非凡性を信じているんだから。
しあさって二月一日から図書館通いが始まる。従来の滞在は二時~三時間だったがしあさってからは四~五時間に延長しようかなとげんざい思案中。『禅の研究』と『倫理学』の原稿書きも再開したい。この勤勉という悪徳はしょうがい消えることはないだろう。こんかいの整理期間中に俺の読欲はかなり回復した。いまは図書館に行きたくて仕様がない。デヴィッド・グレーバー&デヴィッド・ウェングロウの『万物の黎明』が読みたい。人類学系の本にどうして俺はこう惹かれてしまうのだろう。まいにち定刻起床でnoteを書いて図書館に通うことが俺の一番の精神安定剤なのだと今更ながら気が付くことが出来た。「強迫さん」の魔手も「抑鬱くん」の魔手も判で押したような生活を続ける俺の深部には入り込めないだろう。昼夜逆転はもう二度と経験したくない。昼夜逆転すると一日が長すぎる。それだけでなく聴覚や嗅覚が過敏になるし、いまみたいに厳冬の只中だと早朝は地面が凍っていたりして散歩もろくに出来ない。なによりも日記を書く時間がばらばらになるのが嫌だ。

われは憂し生れながらにまぼろしをうちともなへる眼とおもふかな

という与謝野晶子の歌をいま思い出した。
どこかの限界集落の空き家を譲り受けそこで気の合う仲間たちと月二万円以下のほぼ自給自足生活をしたいね、なんて以前誰かと話していたな。ほんとうは貨幣経済と絶縁したいのだけど、現代にあってはそれはあまりにも「現実」を無視し過ぎた理想論と言えるだろう。しかし「現実」などという曖昧至極な言葉をこんなふうに何かを諦める理由のために援用するようでは、もう俺は堂々と「革命家」を名乗ることは出来ないね。だいたいふつう三十を過ぎれば「革命」なんて言葉はそう使わなくなる。「青臭い学生」じゃあるまいし。なのにいまの俺は学生時代の俺よりももっと革命に燃えている。「三五歳にもなって保守派でない人間は頭に問題がある」といったような「名言」を放ったのはチャーチルだったか。ちくしょうジジイ、死ね。あ、もう死んでるか。俺は自分の頭に問題があることを大いに自覚している。だからこれからも研究や文筆の傍ら革命活動にも従事していくつもりである。俺の念頭にはいつも「最も弱き者たちをどう救うか」という問題意識が根を張っている。「最も弱き者たち」とは誰か。人間だ。人間をこの「阿鼻叫喚宇宙」から解放させたい。そのためなら死んでもいい。まずこの愚鈍なサルどもに「正しい悲観思想」を注入しなければならない。「もうお前らは死んでるんだ」と「現実」を突きつけなければならない。でなければこの愚鈍なサルどもはいつになっても「明晰な自己嫌悪」を得ることは出来ない。醜く不完全でしかも非倫理的な「人間性」を超脱することは出来ない。とするととうぜん「人類の消極的集団自決」の可能性もありえないだろう。埴谷雄高の霊に憑依されている俺が目指しているのは「社会革命」なんてみみっちいものではなく、「宇宙革命」に他ならない。「こうでしかありえない」という「既存宇宙」の構造自体を俺はどうしても変えたい。既存の宇宙は常に俺の敵だ。ゆえに俺は闘い続けなければならない。布団の中でも、布団の外でも。斃れて后已む。

天気がいい。ひさしぶりに買い物に行ってくる。モヤシと納豆。ギンヤンマの佃煮とかないかな。むーみん村改造計画。天使たちの爆殺死体。

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