
大雪の気配、抑鬱の谷、キング・オブ・死にぞこない、どこまでも不毛な「大学に行けなかったコンプレックス」、恋はいつでも内角高めのスローカーブ、活字狂時代、
瀬那十四年二月四日
感情によって判断することに慣れている人々は、理論的な事柄については、何ひとつ理解しない。つまり、そういう人々は、いきなり一目で見ぬいてしまおうとし、原理をさぐり求めて行くことに慣れていないのである。ところが、逆に、原理によって推論するのに慣れているもう一方の人々は、感情に関する事柄については、何ひとつ理解しない。そこに原理をさぐり求めるばかりで、一目で見ることができないからである。
午後十二時十八分。チンするだけの五目おこわ、煎茶。本格派の寒波到来でとてつもない勢いで雪が降っている。これは積もるだろう。今日からしばらく図書館を休んで引きこもろうか。長靴はダサいし、長靴じゃないやつはだいたい穴が開いてて水が沁み込んでくるから。それに二年前みたいに一気に積もれば帰宅困難になることだってありうる(徒歩五分以内なのに)。無理して通うことはありません。無理は鈍感バカに任せておけ。学校と同じだ。室内にも読みたい本はぎょうさんある。だいたい布団から出てこんな駄文を綴っているのがもうおかしい。こんな寒いのに俺はどうして布団から出るなんていう暴挙に出たんだろう。いっさいの活動をやめたい。しかし寒いわ。セナ様に温めてほしい。「お前を俺色に染めてやるよ」って抱きしめてほしい。いまのトリスが空になればとうぶん酒は買わない。飲んでは吐き気の繰り返しがしんどくなってきた。飽きてきた。「正義」はいつだって引きこもりの側にしかない、なんて昔はよく書いてた。そのくせ自分は引きこもりではなかった。引きこもる勇気もないくせに引きこもりについて云々していた。何も食べないで衰弱死することをいつだって理想にしてきた。あらゆる「生命維持活動」には明らかにどこか下劣で不潔なところがある。ものを食うたび「生きていてすみません」と感じられないような人間はいますぐ東尋坊に行って死んだほうがいいと思う。「生殖活動」についても同じ。というかそんなやつは八つ裂きの刑でもいい。キチガイは動き続ける。動き続けるのをもうやめたい。どうしたらいい。「ツイッター言論界」はときにひどく窮屈そうに見える。リベラル系はリベラル系で、反リベラル系は反リベラル系で、いつも互いに「間違ったこと」を言わないか不断に監視し合っているように見える。誰もが、「そういう人だとは思わなかった」という「仲間」の失望を恐れながら発言している。「仲間」なんて僕は作りたくない。僕の思想(そんなものがあるとして)に「同調」する人間なんてたぶんいないだろうし、いたところで僕はたぶんそいつを警戒する。「君の心が分かると、たやすく誓える男に、なぜ女は付いてゆくのだろう、そして泣くのだろう」。他人を憎むな。己を憎むな。メメント森喜朗。馳せ参じない馳浩。精虫の集団自決。
竹内洋/佐藤卓己/稲垣恭子・編『日本の論壇雑誌 教養メディアの盛衰』(創元社)を読む。
知らない雑誌もたくさん扱われていたけど最後まで面白く読みました。総合雑誌なんて今はほとんど読まない(定期的に読んでるのは『選択』くらいか)。学生時代のひところは(2007年あたり)は『中央公論』や『文藝春秋』や『正論』(!)なんかをきまぐれに購読していた。でももうその時代にはたぶん「論壇」なんてあってないようなものだった。学生はもう「ノンポリ」化して久しかった。政治なんて語り合うものではなかった。いまだってそうかもしれない。「なんでこんな借金かかえたまま就職しないといけないんだよ、賃金労働以外に選択肢はねえじゃねえか」とか「そもそも大学は就職予備校じゃねえぞ」とか本気で怒ってる学生いるのかな。偏差値とは関係なく、いまどき金を払って大学なんかに行こうとするのなんてボンクラばかりだろう。バカはいつだってカモにされる。まじ残酷。そんなボンクラだからぞろぞろアホ面さげて就職説明会なんかに行くことが出来るんだな。そんな奴らが「一日中寝てたい革命」なんて起こせるとは思えない。だいたい学問に金なんてほとんどいらない。「学ぶのには金が必要だ」と思い込まされているだけでもそいつの頭が絶望的に悪いことが分かる。何かを知りたければ本を読めばいいんだ。俺はこれを悟るのが遅すぎた。よく「自分は大学に行けなかったコンプレックス」に苦しんでいる人がいるけど、そういう人はたいてい大学というところを過大に評価している(彼彼女らの大半も程度が低いので大学を「人生の踏み台」くらいにしか認識してないのだ)。そうした愚かな過大評価が大学という時代遅れの機関に必要以上の「知的権威」を与えてるんだぞ。「学歴コンプレックス」ほど百害あって一利もないものはない。そんなバカげたものに悩む暇があるなら専門書を一冊でも多く読めばいいんだ(まだ専門書が読めないなら出来のいい入門書を何十回も読めばいい)。研究者になりたければいますぐ研究者を名乗ればいいんだ。てめえの頭の悪さや教養の無さを「家庭の事情で大学に行けなかったこと」なんかのせいにするな。俺はそういうやつが大っ嫌いなんだ。知的欲求に経済事情なんか関係ねえだろ。そんなやつらはどうせ大学に行ってもろくに勉強しない。賭けてもいい。論談雑誌の話はどこ行ったんだよ。いいよそんな下らないもん。そういえば『文藝春秋』の名物グラビア「同級生交歓」を本多勝一がディスっている文章が引用されていたな。確かにあそこに登場する面々のニヤつき具合には直視できないものがある。そういえば本多勝一も当時よく読んでたな。たぶんまだ生きてるんだよね。死んだら「ネトウヨの連中」(そんなものがいるとして)が罵言に溢れた追悼文をどっと寄せるだろうな。いやそもそも名前さえ知らないか。バカにしすぎ? 腹減ったわ。卵かけごはんね。眼が覚めたら僕の股間にはスズメバチの巣がありました。恋の予感。シベリアの三等列車。悪いけど君とはもう付き合えない。
【備忘】
藤田覚『近世政治史と天皇』、ピエール・ブルデュー『パスカル的省察』、佐藤卓己『『キング』の時代 国民大衆雑誌の公共性』、鈴木大介『貧困と脳』、関税・外国為替等審議会、総会屋雑誌、株主総会と議決権、放送局の「外資規制」、B・C級戦犯について、Middle-English Dictionary、エストニア近現代史、斎藤元彦研究、ジジイ11600円、マヨネーズ作りかた、