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お前の背中にウシガエルが張り付いていても、お前はそれに気が付くことは出来ないだろう、コスパ馬鹿とエビデンス馬鹿と、トマトと黄色いフンドシ野郎と、

七月十八日

美少年の美とは、(美的美女の場合と同様に)「不幸に運命づけられた者のみに賦与された特権」とでも云いたい或物である。

稲垣足穂『少年愛の美学』(河出書房新社)

午後十二時十六分。うずら、紅茶。ちかごろは正午近くにならないと起きられない。げんざいとてもいい晴れ方をしている。こういう日は外を歩きたい。これ書いたら文圃閣に行こうか。熱中症警戒アラートが出てるんだけど、俺は敢えて危険な道を選ぶ男だから。ようやくセナ熱が少しだけ下がって来た。一時期はセナに命じられれば自爆テロでも路上オナニーでもなんでもしかねないくらいの熱の入れようだった。ILLAYのライブ動画の再生回数もじょじょに減らしていきたい。でないと本が読めない。さいきんは起きている時間のほとんどをセナに費やしている。だからいまはセナをちょくせつ肉眼で見ても卒倒することはないだろう。きのう彼の写真をスマホのホーム画面に設定した。セナはきほんストーンフェイス(ツンデレ顔)だけどときどき笑うときも決して派手には笑わない。ぜったいに歯は見せない。思春期特有の鬱屈のせいなのかな。あるいはただ歯並びが悪いのが恥ずかしいだけなのか。考えたら小学生のころからこれだけの頻度で観衆を前に楽器を演奏するなんて「ふつうのこと」ではない。ちょっとしたローカルアイドルだもんな。三人兄弟の成長が早く見えるのもその「旅芸人」的苦労によるものなのかも。セナはいまたぶん中学二年生だけど、俺が中学二年生のころなんかよりもずっと「大人」だ。その年齢でもうすでに哀愁を漂わせているし。来年の彼はきっともっとたくましくなっている。「男」になっている。少年セナの時代はもう長くない。どうしよう。握手券欲しいんだけど。

内田樹『街場の米中論』(東洋経済新報社)を読む。
ひさしぶりに樹を読んだ。彼の「語り」にはもう飽きつつあるのだけど、いちおうファンなので新刊が出れば読むことにしている。本書、著者も認めているとおり、「米中論」と銘打ってはいるが、中国論に比べてアメリカ論のほうがずっと多い。アメリカ合衆国の憲法は常備軍を認めていない、ということが繰り返し語られている。「平等」と「自由」はもともと食い合わせが悪くアメリカはいつもこの二つの原理の調停のためにたいへんな苦慮を強いられている、といったことも繰り返し語られている。さいきん元大統領の暗殺未遂があったけど、アメリカというのはこんなことがいくら起こっても銃規制の強化には向かうことのない不思議な国だ。「自分の身は自分で守るべき」という自主独立の信念がこれほど個々人のうちに染みわたっている国は他にないのではないか。中国については十四億人というその膨大な人口を無視して考察することは出来ない。少数民族も含めたこれだけの数の人間をずっと大人しくさせておくのは大変なことだ。習近平や中国共産党の偉い人たちが何よりも恐れているのは外国の勢力の侵入なんかではなく自国の民衆の蜂起であり、そのことによって統治不全に陥ることである。だから国内治安の維持コストも膨れ上がってしまう。アメリカと中国という大国の狭間で日本はどう振る舞うべきなのか、という大きな問いに私は関心がない。樹も言ってるけど、日本には「世界戦略」なんかないし、そもそもそんなものは持とうにも持ちえない。日本などもはや東アジアの没落国でしかないのだから。対米従属がリアリズム外交などとは程遠いものであることは私にもなんとなく分かる。こんにちの日米安保体制は熟慮の結果として維持されているのではなく、「ただの思考停止」によって維持されているのだ。アメリカの「在庫処分」のために古い武器を買わされる日本政府。しかも自らアメリカの世界戦略の手先になって、いざ台湾と中国の間で何かがあれば自国民の犠牲も厭わないだろう日本政府。アメリカからすればこれほど便利な「同盟国」(属国)は他にないね。「アメリカンさん、その気になればこっちは中国政府に寝返ることも出来るんだよ」というちょっとした外交的ブラフさえかけようとしないんだから。
そろそろウンコして昼食だな。夏休みをエンジョイしようぜ。人生とは死ぬまでの夏休みなんだ。エンジョイ、サマーホリデイ。エンジョイ、鴨下雄一郎。エンジョイ、タモリの黒メガネ。

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