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及ばぬ鯉の滝登り

一月五日

午前一時起床。布団のなかで、みすず書房や法政大学出版局や青土社の新刊書をつらつら見ながら、二時間ほど過ごす。十年ほどまえは起床後すぐに炊飯の用意をし、御飯が炊けるまでのあいだシェイクスピア戯曲などの原文をB4用紙に書き写すなんてことをしていたけど、いまの僕には当時ほど習慣には忠実になれない。端的にいうと集合住宅に住んでいるからだろう。二〇一六年以降、隣人の存在がつねに気になり、その不快を基調とした慢性的な抑鬱状態を離れることができない。語学のための書写は一戸建てに越してからでいいや。
かけそば食う。掻き揚げ二個。
昨日は今年初めての図書館でひさしぶりに生きた心地がした。部屋にながくいすぎると気がくさくさするし隣人の動向が気になって強迫神経症も悪化する。
予定していたとおりスラヴォイ・ジジェク『絶望する勇気』を読む。とちゅう大学生二人が後ろを通るさい「いつもいる人」と言ったような気がして動揺する。空耳かそれとも他の人のことを言っているのか。まあべつにいけど。
帰りぎわロバート・フィリプソン『言語帝国主義』にたまたま目が留まって五分ほど立ち読み。翻訳横書きの学術書でよほど難儀しそうだけど学問というアルプス登攀は摩擦率が高い方が有益だし愉快なのだ。さくさく読める本なんかファスト・フードと同じです。嚙みやすい消化しやすいじゃ血にも肉にもならない。もっともユーチューブに蔓延する「ファスト教養コンテンツ」に比べれば、まだ書籍のほうがずっとマシなんだけど。ただ「これ一冊で分かる」とか「百分で名著」なんて文句を真には受けないように。そんなインスタントリーなことで誰かの思考経路や世界の構造を「理解」しようなど、甘すぎる。また自説を補強するための読書もいけない。そんなのはオナニーに過ぎない。つねいすでにビルトインされているバイアスにきょくりょく「自覚的」であろうとすることは、「知性」の最低限のマナーではないか。この自説が偏見や迷妄の産物だったとしたら、などと毫も疑えないような人は、まずはおのれの知的劣化の進行を食い止めるべく他人の書いたものをひたすらに読むべきだろう。
ごく大雑把にいうなら、英語をはじめスペイン語やフランス語やアラビア語といった「国際的大言語」の存在は、世界史における「征服と占領」の証拠でもある。占領・植民地化される以前の小国のマイナー言語がいかなる過程を経て消滅したかのかという記録も豊富だろうから言語学全般に興味のある僕としては放っておけない。
たとえばたまたま開いたところにあったグアムのチャモロ語もかなり数奇な運命をたどった(こんな擬人化は見様によっては感傷的に過ぎるかも知れないが)。百科事典によるとチャモロ語はオーストロネシア語族の一つで、ミクロネシアのマリアナ諸島に六万人の話し手がいるという。タガログ語などとのフィリピンの諸言語とも近縁関係にあるという。ちなみにカダログ語は現在のフィリピンの公用語のひとつフィリピノ語の基盤となっている。
チャモロ語はそのままチャモロ族というマリアナ諸島の先住民の言葉だった。小学館の『日本大百科全書』によると、一五二一年にマゼランがグアム島を「発見」し、更に一五六五年、ふてぶてしくも「マリアナ諸島」の領土権を宣言した。いまさらだけど大航海時代におけるヨーロッパ人の「新地発見」とはたいてい先住民支配とセットであり、そこには漏れなく上から目線の布教や追放や労働搾取や殺戮等が伴っていた。野蛮なヨーロッパの黒歴史といって過言ではない。
マリアナ諸島にはとうじ一〇万人くらい住んでいたようだけど、十七世紀末、無理やり強制的にグアム島に疎開させられ、そのこともあって現在の「チャモロ人」はほとんど混血である(スペイン人、メキシコ人、フィリピン人などとの)。例によってスペインの統治によりキリスト教化(ローマ・カトリック)が進行し、もともとあった固有の文化や制度も失われた(三段階からなる社会階層や母系氏族組織があった)。
言語帝国主義からずいぶん離れてしまったけどきょうはネタもないので、ついでに、ラッテ・ストーンについても書いておこう。ラッテ・ストーンとはグアムやサイパンなどのマリアナ諸島には分布している石柱遺構群で、おもにサンゴ石灰岩や玄武岩などで出来ている。それは埋葬の記念的なのか、あるいは礎石なのか祭祀址なのか、詳しいことは分かっていないらしい。考古学者頑張れ。
ちなみにラッテ・ストーン建設以前からも人間が居住していたことが先史時代の考古学的調査で分かっている。古代のチャモロ人はコメを栽培し、三角帆とアウトリガーのあるカヌーを使っていた。アウトリガー(outrigger)というのは、カヌー界隈では一般用語なのだろうけど、つまり転覆防止用の舷外浮材で、片側にだけ張り出すものもあるし両側に張り出すものもある。南太平洋のカヌーにはだいたいアウトリガーがあるらしいけど、詳しい事は専門書に当たろう。気が付けばストーンからカヌーに移行しているじゃん、
それにしても、エジプトのピラミッドやイギリス南部のストーンヘンジ、イースター島のモアイなどはその典型だが、古代につくられた石の像や石の建造物というのはとかく人騒がせなものである。なんの目的もなく、ただ未来人を驚嘆させ、いたずらに考えさせるためだけに作ったというのは筋違いなのだろうか。いってしまえば古代人からの挑戦なのだ。遺跡の謎がぜんぶ解明されてしまえば人類は「歴史のロマン」を失うし、考古学者も消滅する。だからさしあたり謎は謎のままでいい。「物自体」は認識できない。

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