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百年の人生よりも一回の伝説、

七月十六日

すべてのひとは、それぞれにただ一つの真実だけを追いかけるようになると、それだけいっそう危険な誤りにおちいる。人々のまちがっている点は、虚偽を追いかけていることではなく、もう一つの別な真実を追いかけないことである。

パスカル『パンセ』(田辺保・訳 角川書店)

午後十二時十九分。アーモンド、紅茶。休館日。また書き出しがやや遅れた。飲み過ぎたせいではない。ILLAYのライブ動画でセナを見ていたから。このごろは起床後と就寝前は必ずセナを見る。セナを見ないと一日が始まらないしセナを見ないと一日が終わらない気がする。酒を飲んでいる間も気が付けばセナばかり見ている。もうセナの虜だよ俺は。しかも頭のなかは「南米音楽」ばかり流れている。四年前の豊橋駅でのライブで見られるセナはまだ男の子でしかなかったのに、最近の彼は背も伸びて、顔はまだあどけないものの、だんだんと男の色気を纏いつつあるのが分かる。思春期のど真ん中にいるからなのか「笑ったら損」みたいな無表情でいつも演奏している。それがまた魅惑的で愛らしいんだけど。ナツとレイの二人の兄はまだ二十歳にもなってないのにもう大人の男でしかない。ペルー人の子供は成長が早いのか。もう僕はセナになら何をされてもいいという心境だ。セナ好みの女になって、セナのお嫁さんになりたい。そして毎日料理を作ったりしてあげたい。でもたぶん僕はセナのお嫁さんにはなれないだろう。だいたい僕はまだセナを生で見たことがない。セナを肉眼で見る日など来ないかもしれない。セナを目の前にすると心臓のバクバクが強くなりすぎて失神するだろう。目と目が合おうものなら電気ショックで即死するだろう。抱かれようものなら宇宙は即コッパミジンになるだろう。とりあえずセナは僕にとっての神話的存在であり続けてほしい。彼は半分神で半分人間みたいなものだから。セナがある日とつぜんILLAYからいなくなるんじゃないか、ということがいまは気がかり。演奏中の彼の表情はいつも何となく憂愁を帯びているし、今にも消え去りそうな風情があるから。「やらされている」という感じこそないが、「好きでやっている」という感じもない。ただひとつはっきりしていることは、ILLAYにはセナは絶対に欠かせないということ。きょうこのあと文圃閣に行きたいのだけどいまにも雨が降りそうなんだよな。でも行こう。『百年の孤独』ほどハラスメント的ではない変な小説でもないかな。運故したくなってきた。そろそろ昼食ね。ネギを炒めて納豆混ぜる。そういえば、鶏皮に片栗粉をまぶして、白だしと醤油に浸してから炒めると、すごく美味しいよ。料理本もいつか書きたいんだ俺は。東京だよおっかさん。

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