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踏み切りには泥酔のトルストイ、皇居には猫の内臓、新宿駅は牛の睾丸、彗星よりも青い社畜の屠殺場、ケチャップをケツにぶちこむ熾天使、将軍様のG‐Spot、空っぽの未来、芥川龍之介の世紀末的喉仏

五月三一日

生来、硝子好きである。好きより狂に近い。水晶は硝子より高級なものだが、私の好きな曇りが足りない。水晶の板をおいて水晶越しに何かを見ても、むろん対象物ははっきりとは見えないが、水晶は硝子よりも明澄で、明晰な頭脳の如くであって、なんとなく朦朧とした魔もの性がない。硝子には不透明な美がある。不透明な魔がある。硝子でも高級品は魅力がいくぶん足りない。ボヘミア硝子とかヴェネツィア硝子とかがそれである。今はなくなったが、ラムネの青いびん、水泡がはいってみる、ぶ厚い、酒屋の立ち飲み用のコップ、それから幼い私が病気の時にながめた薬のびん。夕方の色や、冬枯れの庭を映し出していた、ピカピカに磨いてない硝子戸などの、誘惑的な曇り。私は幼い時に、硝子戸のこっち側から空や庭をじっと見ていることが日課のようなものだった。

森茉莉『私の美の世界』「不思議な硝子」(新潮社)

予定通り午前九時三八分に目覚めたが、一時間ほど二度寝。離床は十時四〇分。その後、礼拝、紅茶、貯古、ブルーノ・ワルターとコロンビア交響楽団によるグスタフ・マーラー「巨人」。これからもこんな感じでいいか。二時からのライブラリーに間に合えばいい。集合住宅はその家賃にかかわらず人間の住むところじゃない。息しているだけで異様に体力を奪われる。そのうえ隣には死に損ないのヤニカス妖怪がいるから堪らない。拉致されてくれんかね、ホント。

山崎雅弘『未完の敗戦』(集英社)を読む。
なぜこの日本という国は人を粗末に扱うのか、という「そもそも論」に著者なりの応答を試みた一冊。身を粉にして働くのことに「美徳」を見出すマゾ人間が日本に多い(ような気がする)理由がなんとなくわかった。神風特攻隊や爆弾三勇士などの「自己犠牲的美談」が好きな人間が多い(ような気がする)理由もすこしわかった。ここには、国の権力行使やプロパガンダだけでは説明できない、心情的基盤がある。
こんにちにおける「人に迷惑をかけたくない」という心理様式は、「天皇のため、御国のため」ととりあえず<権威>に服従しまくっていたかつての心理様式と、ほぼ同質のものだろう。自分のせいで共同体の秩序を乱すわけにはいかないのだ。繰り返すが、そもそも人が人を生むことこそが最大最悪の迷惑行為なのであって、これに比べればテロや強盗や生活保護費の不正受給などかわいいものだ。つまるところ僕はもっとまともな<理性的>迷惑人間が世に増えればいいと思っている。糞みたいな人類史に終止符を打てるのはそんな大いなる迷惑人だけだろう。ほとんどの人間は骨の髄までヘタレで暴れることを忘れてしまっているから。が、僕みたいな平均的真面目人間はなかなか「人の道」を外れることが出来ない。「徹底せる憎悪美と反逆美」(大杉栄)のなかで焼死したいのだけども。
東京五輪の開催強行を太平洋作戦におけるインパール作戦になぞらえた「インパール五輪」という言葉があった。ほとんどの人はインパール作戦の内容についてほとんどなにも知らないだろう。七十年以上も前の馬鹿げた作戦を事細かに調べるなんて物好きにもほどがあるというものだ。でもそんな物好きでなければ得られない洞察が数多くあるのだ。困ったことに、「歴史上の事実」に無知であることは、今や恥でもなんでもない。韓国併合?サンフランシスコ講和条約?朝鮮戦争?ロッキード事件?プラザ合意?なにそれおいしいの?ってな人を探すのは簡単だ。いわゆる「高学歴」な人たちの中に於いてさえそう難しことではない。「歴史を知らない人間は人間ではない」といった類の暴言に与するつもりはないが、「歴史をあまりに知らな過ぎる人間」と長く閑談したいとは思わない。たしかに「哲学的」には、「歴史的事実」など、二次的三次的な表象もしくは痕跡に過ぎない。ミッドウェー海戦であれ玉音放送であれ、「かつてあったとされていること」であり、どうしても疑いえない「いまここの開け」とは認識次元を異にする何かである。だから、「~など存在しなかった」という歴史修正主義的言明もあんがい容易になされうる。ただしそうした「懐疑権」を行使する以上、その人は徹底的に何もかもを疑わねばならない。特定の「歴史的事実」だけを都合よく宙吊りにすることなど出来ない。「他者」や「国」や「自我」と呼ばれているものの<実在性>をも疑わねばならない。
ご飯炊けたぜ。食って図書館に行きますわ。

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