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「生き続けることの不可能性」についてのぶよぶよした考察ならびに犬の睾丸から抽出可能な近未来的観念体についての断想、

三月三日

啓蒙主義の人間観、たとえば「(誰かに従うのではなく)自分こそが判断能力を発揮する主人公」といった大げさな表現は、二〇四〇年にはもう誰もピンとこない考え方である。またこんなことは個々の人々が幸せになるのに不必要でもある。また国家にとっても余計なものである。というのは、国家も「ポスト民主主義」で、民主主義に驚くほど似ているが、選ばれた政治家が権力を持たない国家形態になっているからである。

R.D.プレヒト『デジタル革命で奴隷にならない生き方(ディストピアを超えて現代のユートピアへ)』「第3章 パロアルト資本主義が世界を支配する――ディストピア」(美濃口坦・訳 日本評論社)

午前十一時三四分。紅茶、芋チップ。ぜんぜん知らない放課後の中学校に迷い込んで「不審者」だと思われないかびくびくしながら出口を探している夢を見る。ずっとエルヴィス・プレスリーの「Can't Help Falling in Love」が流れていた。
この数か月、起床するたび、「きょう図書館行くのやめようか」と思わずにはいられない。いまの私は図書館通いにさえ苦痛を感じているのかもしれない。二年前の開館当初の興奮はもうすでに失われて久しい。わざわざ金をかけてまで恥を晒したばかりの新婚夫婦も二年もすればたいていは倦怠期に突入するけどそれに似ているか。といっても本を読むことが嫌なのではなくて人中にい続けることが嫌なんです。下層民どもの声を聞きたくないのです。人影の一切ない図書館があればたぶんそこでジョニー・ウォーカーを片手に終日過ごすだろう。どうせこんな地獄みたいな不自由世界に生まれるならせめて億万長者の家に生まれたかった。なんで俺はロックフェラー家に生まれなかったのか、と高校生の頃から疑問だった。中流の薄汚い家庭なんかで生まれたら最低限の美的生活をおくる可能性さえ奪われる。「労働」と呼ばれている自由刑を免れることは出来ない。「一日中酒を飲みながら本を読んで過ごす」なんて俺にしてみれば贅沢でさえない。慣れない言葉を強いて使うならそれは「人権」だ。貴族かそうでなければ死か、とほんらいすべての人間は叫ばなければならないのだ。これが分からないような賃金奴隷は自死にも値しない。もうこれ以上うごめく衆生を目に入れたくない。
音が気になる、というこの「病」はどうしようもない。壁を隔てたそこに他人が息をしている、と感じただけで気が狂いそうになる。その他人を好きか嫌いかということはこの際関係がない。私はこの世界の「平均的がさつさ」にいつまでも慣れることが出来ない。人間から無限の距離を取りたい。どんな他者も私にとっては脅威的である。あらゆる災いはつねに「他者」からやってくる。原民喜著作集を読みたい。
「生き続けることは不可能だ」という確信がこれ以上ないほど強くなっている。「生き続けることの不可能性」を私ほど明晰に自覚している者は他にいないだろう。他のボンクラどもはまだ自分が生きていると勘違いしている。「人生に守られている」「自分もまんざら捨てたものでもない」と勘違いしている。救いがたい愚鈍さ。佐山聡に股間を蹴られろ。いつものように幕が開き恋の歌う私に届いた報せは黒い縁取りがありました。すでに死人である私はきょうも「生き続けることの不可能性」について思考をめぐらしている。開けへそのごま。国定忠治。ウォーターメロンの花の中に永劫への架け橋を私は見ました。もうだめさ。

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