差別と偏見とマッチョ志向と
三月二一日
十二時五〇分起床。tea and,賞味期限を五か月ほど過ぎたクッキー。
I learnt the benefits of reaching out through e-mail while I was a student.and now I receive many cold e-mails myself.
and then,go to eat.
松井裕明『「感動ポルノ」と向き合う(障害者像にひそむ差別と排除)』(岩波書店)を読む。感動ポルノ(Inspiration porn)とは、身体障害者等がなにか困難を克服する姿を「感動コンテンツ」として(健常者)が消費すること。自身も障害を持つ、オーストラリアの人権活動家・ステラ・ヤングが二〇一二年、最初に使ったとされている。
きのう、天才的学者などが「変人」として紋切り型に描かれること、あるいはその「変人」的な側面がことさら強調されて描かれることを我々が好みがちであると書いた(ボサボサの髪型、生活力皆無、非常識、偏執狂、極端な非社交性、統合失調症)。
同様に、障害者も、大衆向け映像作品などでなにかしらステレオタイプ的に表象される傾向がある。Robert A. Scott『盲人はつくられる(大人の社会化の一研究)』(東信堂)はスティグマ理論やラベリング理論を活用した「社会的弱者研究」の隠れた名著だが、ここでは「盲人」を「けがれなき聖人」のように見たり、あるいは知的に劣等蒙昧な存在としてあらかじめ想定してしまう「晴眼者」のバイアスについて、かなりの紙幅が割かれている。「盲人」はその障害の内容・程度にかかわらず、「普通とは明らかに違った他者」として認識され、敬遠的あるいは忌避的に扱われやすい。もちろんこれは「晴眼者」の他者理解感度や知識の不足に因るものだ。障害者に対するぼんやりとした「恐れ」を持っている「健常者」は、少なくない。口には出さすとも、「接し方を間違えたら大変なことになるかも知れない」「変なことを言って怒られたら大変だ」「近づいて面倒くさいことに巻き込まれたくない」といった気持ちが幾分か存在しているのだ。
「感動ポルノ」ときくとほとんど反射的に「24時間テレビ 愛は地球を救う」のような分かりやすいものを連想し、その概念のいわんとしていることをすっかり理解した気になってしまうかもしれないけど、そもそもどうして障害者を「感動の対象」にしてはいけないのかという批判的な検討は、学問上きっと有益だろう。
障害者を素朴に「感動コンテンツ化」してしまうことによる弊害のひとつとして、「正しい障害者」表象の再生産的固定化、ひいてはその「正しい障害者」への眼差しの固定化がよく挙げられる。たとえばそうしたピュアで優しく従順な「同情すべき他者」としての理想的障害者像を内面に持っている人は、自分の周囲の障害者にもそうした「役割」を知らず知らずのうちに要求してしまう可能性がある。そんな人がある日、ぜんぜん可愛気の無い傲岸不遜な障害者に接したとき、どういう反応を起こすだろうか。そこではじめて、「健常者だろうが障害者だろうがクズはクズ」という当たり前の事実に気が付くのだろうか。
障害者へのこのような「役割期待」は、女性や男性といったカテゴリーにおいても広くみられる。「女性はおしとやかでなければならない」「男性は弱音をはかないものだ」といったジェンダー・ロールの縛りは、自覚だけではどうにもならないほどに根強い。特に男性の「強くあれ」的マッチョ志向には心底うんざりさせられる。偏見は常に既にどこにでもあるのだ。他者による(偏見的)眼差しは、「私」の自身についてのイメージ(セルフイメージ)をその基礎レベルにおいて規定している。同じく私の(偏見的)眼差しの有様は、私の日常的感受様式や差別意識を根底から支えているのだ。
「年寄りは無神経で、しかも惨めな存在だ」という偏見は、その偏見主の加齢恐怖やエイジズムと密接に結びついている。「ホモフォビア(同性愛嫌悪)」という偏見類型も、異性愛規範を内面化した男性による「反射的な自己正常宣言」として捉えることができる。差別とは「私はあいつらとは違う」という自己防衛的・自己特権化的な線引き行為なのであり、この線引きによってこそ「われわれ」という不明確な一人称集団は結束的実在感を得られるのである。これが享楽であり、生存戦略的にも有効なのは、言うまでもない。