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うだる台北訪問記(2019)前編
はじめに
30代でいられるのも残り数ヶ月となった2019年のある晩、30代最後の想い出づくりに独りで海外に行きたいのだと話したら、行きつけのバー「L」のマスターは、すぐに台湾を勧めてくれた。近いうえに、関空から格安便で直接行けるからと。
その後、近所の台湾料理屋「C」で出会った人たちからも情報を集め、結局、思い立ってから1ヶ月くらいで、それまでは敗戦まで日本領だったことくらいしか知識がなかった台湾に行くことにした。とりわけ、「C」でたまたまとなりに座ったクリッとした目が印象的な女性が――てっきり台湾人だと思っていたが日本人だった――2泊3日の台北旅行プランをかなり具体的に紹介してくれたことが決め手になった。
6月20日:大阪・桃園・台北
関空を早朝に出る格安航空会社の便だったが、前日は「L」で深夜まで飲んでおり、あわただしく家を出る(深夜になってから「L」のマスターに「明日、何時に出発なんですか?」と心配そうに聞かれ、はじめて自分が出発時間を確認せずに飲みに出かけていたことに気づいた)。出張用のリュックサックひとつで2泊3日の旅ということで、すっかり気持ちがゆるんでいたようだ。搭乗ゲートについてから、あわててPCを開き、予約したホテルまでの行き方を調べる始末だった。
格安航空会社を利用するのははじめてで、大柄なので座席のせまさが心配だったが、となりの席が小柄な女性だったこともあって、じゅうぶん快適だった。寝不足と時間帯のせいもあって、飛行機が離陸するかしないかという時点ですでに寝入っており、気がついたら飛行機はもう降下しはじめている。あまりにも台湾が近いことに驚きつつ、桃園空港に到着。
移動に関しては、前述の女性が教えてくれたとおりに行動したのだが、空港の検査にかかる時間から交通機関用のプリペイド・カードの購入、台北への移動など、すべて彼女の話どおりにすすんでいったので、「ことばの通じない異国に独り」という緊張感がないまま台北中央駅まで来てしまい、すこし拍子抜けする(唯一、想定していなかったのは、換金する金額だったが、換金所の列に並んだあとで、自分の後ろにならんだ日本人男性の会話を盗み聞きして、換金する金額を決めた)。台北駅の地下街が日本製ゲームの広告まみれで、アキハバラみたいに日本のサブカル臭がプンプンしていたことも、その一因だった。
駅から出て、最初の印象は「むし暑い!」。まるで、植物園の熱帯植物コーナーのようだ。暑いだけじゃない。とにかく、湿気がすごい。汗っかきの私は、すぐに汗まみれになった。
空腹だったので駅地下でてきとうに昼食をとり、まずは国軍歴史文物館と国立台湾博物館を見学。国軍歴史文物館には日中戦争を戦った国民党軍の展示が多く、日本人が「侵略者」だったことを痛感させられる。その一方で、台湾博物館では台湾の文化的発展に日本人が貢献してきたことを知り、すこし気が楽になった。また、その道中で総統府の立派な建物も見物した。
二二八和平公園ですこし時間をつぶしてから、北門ちかくのホテルにチェックイン。ちなみに、この時点では、二二八事件のことを勉強しておらず、てっきり抗日運動かなにかの記念公園だと思ってかってに暗い気持ちになっていた。
荷物を置いて北門をとおり、古風な街並みが残っていることで有名な迪化街へ。漢方薬や乾物などの問屋街なのでなにも買いたいものはなかったが、それまで大阪とあまり変わりない現代的な街並みばかり見ていたので、ここに来てようやく旅情をかきたてられた。
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夕方といえる時刻になっていたがまだ暑く、冷たいお茶目当てでチマキ屋に入り休憩する。「お茶だけ頼むのは申し訳ないから、軽くおなかに入れておくか」くらいの気持ちでチマキも頼んだら、日本のものとは比べ物にならないくらい大きなガッツリとした食べ物が出てきてビックリ。台湾では、チマキはメインディッシュなのだ。
一息ついてから、日本語でもアナウンスがある地下鉄で西門へ。ここは台北でも若者向けの一角だと聞いていたが、駅を出てから、あまりにも渋谷に印象が似ているので驚いた。看板の文字こそ繁体字ばかりだが、その色づかいや、行きかう若者たちの風貌なんかも渋谷っぽい。まぁ、「若者がみんな同じように見える」というオジサン特有の現象が、私にもそろそろ現れてきたのかもしれないが。
半日ほど歩きとおしで、かなり疲れてきた。しかも、陽はかたむいたのに、まだまだ暑い。観光なんかやめてホテルに戻ろうかと思ったとき、「西瓜汁」の文字が見えた。これは、前述のクリッとした目の女性が、暑気払いにとおすすめしてくれた一品である。もともとスイカ好きということもあり、すぐに大きめのカップで1杯。思い込みの力も働いてか、思った以上に解熱効果があり、元気をとりもどして西門一帯を散策した。
西門でとくに印象に残っているのは、台湾名物のマンゴーかき氷を食べたことだ。雑居ビルの一隅にある小さな甘味処でポスターが目に入ったので、深く考えずに注文したのだが、洗面器のような容器いっぱいの氷にマンゴー丸ごといくつ分かという量が出てきて面食らった。こんなに大量の氷も果物も食べたことがない。ほかには刈りあげ頭の女子高生2人しか客がおらず、店主は若いがくたびれた外見の女性。その量に圧倒され、ただただスプーンと口を機械的に動かしているうちに、女子高生たちは帰ってしまい、店主はなぜか泣きながら皿を洗っている。冷たさで痛む頭で彼女の涙の理由を想像していると、なんだかつげ義春の旅マンガみたいだと思った。
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西門はすてきな町だったが、あまりにも「大都会」すぎた。これでは日本と変わらない。そこで、なんとしてでも「地元らしい」ところへ行ってやろうと、しばらく、でたらめに歩いて、絶対に観光客が来なさそうな料理屋に入ってみた。
この冒険は正解だった。メニュー表に英語も日本語もないし、店主らしきおじさんは英語が分からない。こちらは中国語も台湾語も分からないから、カタコトの英語でおしとおすのだが、結局、つうじたのは「ビール」だけ。
すると、このおじさん、店の奥で宴会をしていたサラリーマンふうの男性たちに声をかけ、英語のできる1人を私のほうに寄こしてくれた。彼はとても親切で、台湾的な魚料理が食べたいという私に、私と同程度のカタコトでいろいろと根気よく説明してくれた。だが、「主厨推薦」――これは「シェフのおすすめ」だろう――の「鱔」が分からない。「『鱔』トハ、何デアルカ?」「長イ魚デアル」「ソレハ、『ウナギ』デアルカ?」「否。『鱔』ハ小サク、海デハナク淡水ニ棲ム」といったやりとりがあり、てっきりドジョウだろうと思って注文した。サラリーマン氏は、「何カアッタラ連絡セヨ」と、なぜか電話をかけるジェスチャーをして席に戻った。もちろん、電話番号なんて交換していない。
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あとで調べて分かったのだが、「鱔」とはタウナギという魚のことで、日本では食用にしないからまるでなじみがない。出てきた料理は、トウガラシとニンニク、ショウガががんがん利いていて、タウナギ自体の味はよく分からなかったが、クニクニとした食感が楽しかった。また食べてみたいと思う。
親切な店主とサラリーマン氏のおかげでようやく異国情緒を味わえた、と大満足で店を出た。
すっかり暗くなっていたが、少しでも街並みを味わおうとホテルまで歩く。趣のある建物が見えたので入ってみたら、若い女性が、ピーナッツのような形の木片を床に投げながら、熱心にお祈りをしていた。ビールと熱気、旅の疲れで頭がボンヤリしていたこともあって、ロウソクの灯りに照らしだされたその姿はとても幻想的。リヨンの大聖堂で見た光景がなぜか脳裏にうかび、信仰の美しさは洋の東西を問わないのだと思う。
ホテルのそばに大きな本屋があったので、中国将棋の本がないか探してみたら、なんと数独(ナンプレ)の下にならんでいた。一方、囲碁は囲碁だけで専用の棚があった。中華文明では古来より囲碁は教養人のたしなみ、将棋は庶民の遊戯という扱いだったらしいが、いまでもそうなのかと妙な感銘をうける。
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ホテルの部屋は可もなく不可もなくといったところだが、無料で使えるコインランドリーがあったのは本当にありがたかった。日に何度も着替えないといけないほど汗をかいたので、毎晩、利用させてもらった。