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キリシタン城址巡り 河内キリシタン編 その4

はじめに
 この節では、番外編的に、河内キリシタン自身の城ではないが、三箇父子と縁がある(かもしれない)城を紹介する。

十市城の周囲の風景

 十市城とサンチョ石橋義忠

 1596年に出版された書籍に掲載されたヘンデリック・フローレン・ファン・ラングレンなる地図製作者の手による「東アジア図」には、「沢」のそばに「十市(Tochis)」と書かれている。沢はイエズス会と深い交流のあった高山父子の城があった場所なので、その名が記された理由もよく分かる。しかし、十市(とおち)は? わたしの家からそう遠くない奈良県内の地名なのだが、大航海時代のヨーロッパ人にとってとくに重要な場所とも思えず、なぜわざわざ記載されているのか気になっていた。

 謎が解けたのは、高山父子に関する本を読んでいたときのこと。日本に西洋医学をもたらした人物として知られるルイス・デ・アルメイダ(1525?-83)が、1565年に大和を訪れたさい、十市についても報告していたのだ。地図製作者は、イエズス会の報告書を情報源として日本の地名を記したのだろう。そのため、貿易にもキリスト教布教にも特別に重要とは思えない十市が、歴史的な資料にその名を残すことになった。

 十市城(橿原市)は、大和の有力一族だった十市氏が鎌倉時代後半から本拠地としていた城。近くを寺川という川が流れているが、かつてはこの川を水濠として利用していたのかもしれない。

 十市氏は、1559年、三好家の家臣だった松永久秀が大和に侵攻してくると、筒井氏らとともに抵抗するが、結局は破れ、その軍門に下る。その後、十市氏は三好家の内紛や織田信長の大和支配にも関係し、浮き沈みがあったが、結局、筒井氏と運命をともにしたようだ。十市城は、おそくとも1615年の一国一城令のさいに廃城になったと考えられる。

 この城は、もっともたどり着くのが困難だった城として、忘れがたい。新ノ口駅から寺川を越えて、徒歩20分ちょっとのはずだったのだが、目印がほとんどない田園風景のなかに石碑だけがあるため、まったく道が分からず――Googleマップに出ないあぜ道を通らないと行けない――田んぼの周囲をぐるぐる回りつづけることになったのだ。日が傾き、くたくたになり、ウンザリしたころに、やっと石碑にたどり着くことができた。きっと、悪魔に試されていたのだろう(?)。十市出身の友人にその話をしたら、なんでそこまでしてあんな物を……という冷めた目で見られた。

十市城址の石碑

 アルメイダの記録に出てくる城主は、十市氏ではない。この時期の十市家当主は十市遠勝という人物で、十市氏の最盛期を築いた遠忠の息子である。その遠忠は、1536年に龍王山(天理市)の山頂にあった城を改修し、そこに拠点を移していた。アルメイダが十市城で面会した人物は、サンチョ石橋義忠(生没年不詳)という。この人物、ややこしいことに「忠義」とも称していたようだ。

 サンチョ石橋は松永久秀の家臣で、石橋氏は尾張守護だった斯波氏の庶流である。かれは、織田信長が尾張を統一したのちの1560年ごろ、本家筋にあたる斯波義銀――「信長の野望」における弱小武将として有名――とともに信長に謀反をおこそうとして露見し、尾張から追放された。

 その後、十市城の城主としてアルメイダの報告に出てくるだけで、久秀のもとでどのような活躍をしたのかは、まるで分からない。城主になったのは、さかのぼれば足利将軍家に連なる名家の出だから、というだけの理由からかもしれない。ただ、アルメイダが訪ねていったくらいだから、キリシタン武将としては影響力があったのだろう。

 十市と沢の地理的関係から、サンチョ石橋がキリシタンになったのはダリオ高山飛騨守の影響から、と考えるのが自然だろう。ただ、実は、十市はサンチョ三箇ともゆかりがある。三箇氏の祖先が南北朝時代に南朝方で活躍し、十市に領地を得ていたのである。十市城に入ってから、当地にいた三箇家のキリシタンと交流をもち信仰に目覚めた、と考えたとしてもまったく理不尽でもないだろう。

伊賀上野城

上野城と筒井定次

 伊賀上野城(伊賀市)は、築城の名手として有名な藤堂高虎による高石垣で有名な国の史跡。この石垣は、大坂城についで2番目に高いとのこと。

 いまは三層の立派な天守が建っているが、これは1935年に地元出身の政治家によって建てられたもの。オリジナルは五層の大天守だったが、完成直前の1612年に嵐で崩壊し、結局、完成していない。この城は、大坂城の豊臣秀頼に対抗するために、徳川家康が高虎に命じて改修させていたのだが、1615年に豊臣家が滅亡したため用なしとなり、江戸時代をつうじて天守は建てられなかった。

 上野城を築いたのは、1585年に大和から伊賀に国替えになり、大和郡山城に代わる居城を必要としていた筒井定次(1562-1615)である。上野市駅から、徒歩10分弱。駅から城までは近いが、丘のうえに建つ城自体が大きいので、見物するにはなかなか体力が必要。見映えのする模擬天守や、そのなかの展示物、そして、もちろん高虎の高石垣など見所がおおい。

 ただし、定次時代の城は、現在の3分の1くらいの大きさだったらしいので、外観は今とはまったく異なっていたはずである。現地では、ちゃんと定次の時代の天守台を示す石碑も――竹藪に埋もれているが――立てられている。

筒井定次の時代の天守台を示す石碑

 上野城の城主だった筒井伊賀守定次は、大和の名族だった筒井氏の衰退をまねいた暗君とされている。「洞ヶ峠」で有名な筒井順慶の従弟として生まれ、子のない順慶の養子となる。天下人だった織田信長の娘婿になり、また、豊臣秀吉の時代には豊臣姓を賜るなど、二英傑との関係は良好だった。

 秀吉の家臣としては、かれによるおもな戦いのほとんど――小牧長久手の戦い、紀州征伐、四国征伐、九州征伐、小田原征伐、文禄慶長の役――に参加している。ただし、文禄慶長の役のさいには、肥前名護屋に駐屯しただけで、渡海はしていない。

 関ヶ原の戦い(1600)では東軍についた定次だったが、しかし、他の豊臣家恩顧の大名と同じく徳川家康にいろいろと難癖をつけられ、1608年に改易。その後、大坂冬の陣(1614)のさいに豊臣方に内通していたとして、切腹させられている。改易の理由は、一般的には家臣団を統率できなかったこととされており、事実、名将として有名な島左近らに見限られている。しかし、その一方で、かれがキリスト教を信仰していたため、とする説もある。

 たしかに、イエズス会の記録では、1592年に長崎で「伊賀の国主」が洗礼を受けたことになっている。定次は1585年に伊賀の国持大名になっているし、この年、朝鮮出兵をひかえ、長崎にちかい肥前名護屋に駐屯していた。このとき、すでにバテレン追放令が出ていたが、周囲のキリシタンから影響をうけていた定次はつよく望んで、家臣だったマンショ三箇に巡察師ヴァリニャーノを紹介してもらい、受洗したという。

 ただ、その後の報告書に登場しないことから、短期間で信仰を棄てたと考えられている。わたし自身は、とりわけ、かれの洗礼名が記されていないことから、そもそも誤報だったのではないかと思っている。

伝香寺にある筒井定次の供養塔

 筒井氏は、法相宗の大本山である興福寺とつよい繋がりをもった一族で、定次の供養塔は奈良の伝香寺にある。

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