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豊後キリシタン紀行(2023)前編

はじめに
 2022年は公私ともに最悪の年だった。そういう気持ちが強かったため、兄一家に新年のあいさつをするため下関に行くことが決まったさい、すぐに2023年は巡礼の旅から始めようと思った。「巡礼」と呼ぶのはすこし大げさかもしれない。要するに、代表的キリシタン大名であるフランシスコ大友義鎮(宗麟)ゆかりの地を巡る観光旅行だ。
 
1月5日:下関・竹田・大分
 下関駅ちかくのホテルで朝をむかえる。朝食は定食形式で、大食いの私には物足りない量ではあったが、なんとフグ料理が数品あって、とても豪華。さすが下関だと感心する。小倉から東に行ったことは一度もなかったので乗り継ぎが心配だったが、駅の窓口が開いていたので、豊後竹田までの切符をすべて用意してもらえた。

 切符の心配がなくなって心は軽かったが、小倉から大分行の特急「ソニック」に乗ってからは、電車の揺れのせいか、前夜に飲みすぎたビールが遅ればせながら効果を発揮して――兄と飲むのは3年ぶりだった――気分が悪くなってきた。1時間半ていどの移動だったが、実際以上に長く感じられ、フラフラになりながら豊肥線のホームにあがった。

 豊後竹田まではさらに1時間以上かかり、正午ごろに着いた。竹田は、宗麟の孫にあたるパウロ志賀親次の時代に大勢の改宗者が出て、大友家滅亡後、中川家の岡藩時代になっても信者が大勢いたため、キリシタン遺物がおおく残されている。

 大分から先は電車の本数が限られているので、1本乗り遅れると2時間は足止めをくらう、という緊張感を胸に駅舎から出る。さいわい、この町は観光地化がすすんでいて、駅前には案内所もあればタクシーもとまっている。巡礼らしくはなかったが、すぐにタクシーに乗り込み、親次の岡城まで運んでもらった。ほぼワンメーターで、あっという間に到着。

 岡城はなんといっても滝廉太郎の「荒城の月」で有名で、現地でも彼をプッシュしていた。不勉強だったと反省したのは、滝もキリスト教徒でありドイツ留学経験もあったことを確認しておらず、彼の旧居などが見学リストから漏れていたことだ。ついでに言うなら、「杉野はいずや」で有名な広瀬中佐関連の史跡も、現地に行ってからはじめて知った。まぁ、こちらは神道の神様だから良いか。

「荒城の月」の岡城

 そういうわけで、岡城では外から石垣を見上げ、「なるほど確かに堅固そうな城だな」と思っただけで、城内の滝廉太郎像も見ずに、すぐに町へと下っていく。広瀬神社も素通りして、まっすぐキリシタン洞窟礼拝堂へ。住宅街のおくにあるが、道には標識が出ていて分かりやすい。城から徒歩10分ていど。

 この礼拝堂は、17世紀初頭に作られ、潜伏した宣教師が使用していたという。いまは崩れてしまったが、かつてはそばにもっと大きな洞窟があり、宣教師たちはそこで暮らしていたようだ。ちなみに、彼らをここに匿ったのは家老のヨハネ・ディダーコ古田重治だと考えられている。当時はまだ信者がとても多く、迫害によって住民が離散することを危惧した領主が、見て見ぬふりをしていたそうである。

バテレンが潜伏した洞窟

 遠藤周作の『沈黙』で描かれた潜伏キリシタンの世界の、まさにその現場にいるのだという気分になり、しばし黙想する。

 竹田には、キリシタン関連の展示がある資料館が2つもある。このうち、中川家が秘蔵していた遺物がある歴史文化館は閉館日だったので諦め、駅前にあるキリシタン資料館だけ訪れた。ここも、正月休みから明けたばかりで、記念品を買おうとしたら「まだ釣銭の準備がないので」と断られてしまった。

 ワンフロアしかないのだが、歴史文化館で見損ねた「サンチャゴの鐘」のレプリカや本物のキリシタン遺物など、展示は充実している。さらには、キリシタン史研究者でもあるルイス・フォンテス神父のことなど郷土史の解説が豊富で、時間が足りなくなってきた。受付の男性は他に客もおらずヒマだったからか、豊後キリシタンの話を色々と話してくれたが、電車の時間がせまっていたので後ろ髪をひかれながら駅にむかう。

 駅前で軽食が食べられたらと思ったが、どこもまだ正月休みで、コンビニで買っておいたサンドイッチひとつをほおばり大分へ。各駅停車ですすむ電車にゆられていると、汗で湿った下着が冷えていき、歩いた疲れがどっと出てくる。

 15時すぎに大分駅に着くと、まっさきに駅前の宗麟と聖フランシスコ・ザビエルの像にむかった。この二人は1551年に大分で出会っており、晩年の宗麟がキリスト教徒になったのは、若き日に出会ったこの清貧の宣教師の姿がつよく影響していた――と遠藤周作は『王の挽歌』で書いている。大分では宗麟の像をたくさん見たが、この駅前のものが群を抜いて威厳があり、かっこよかった。

大分駅前の聖ザビエル

 それから、駅から徒歩10分ちょっとの府内城まで行き、そこから南にのびる道路の中央分離帯のようなスペースを歩きながら、キリシタン時代に関する記念碑(マンショ伊東祐益の像や西洋医術発祥の記念碑など)を見ていく。南端の産業通りまで出てきて、ホテルに向かう予定だったが、まだ日没まで時間があったので、さらに数百メートル先にあるデウス堂跡と大友氏館跡にむかった。

 ちなみに、記念碑がこんな配置だから、府内城がキリシタン大名ゆかりの城であるかのように誤解されそうだが、この城は大友家滅亡後に建てられたもの。

 それどころか、府内城の城主のなかには、むしろキリシタン弾圧で有名な竹中重義(采女)がいる。この人物は、大名なのに長崎奉行もつとめており、踏み絵や穴吊りなど各種の拷問を発案して多くのキリシタンを棄教や殉教に追いこんだ、キリシタン迫害史におけるラスボス的存在である――頭を使う方向はちがうが、さすが秀吉の軍師として高名な竹中半兵衛の甥っ子と言うべきか。

 産業通りから少し住宅街に入ったところにあるデウス堂跡は、1553年に建てられた教会を記念するものだが、石碑と案内板が駐車場わきに寂しく建っているだけで、写真を撮っていると「不審者だと思われないか」と不安になる。

デウス堂跡地

 そこからすぐの大友氏館跡は、庭園と案内板があるにはあるが、工事現場のようだった。宗麟らはここに住んでいたのだが、1586年に島津家が豊後に侵攻したさい、他のキリシタンゆかりの場所もろとも灰じんに帰したそうだ。

 跡地脇にある「南蛮BVNGO交流館」という施設では、大友氏館を再建するプロジェクトのことなどを知ることができたが、完成はまだまだ先のようだった。

 疲れというよりは空腹のせいでフラフラになりながら、大分駅で銘菓「ざびえる」を購入し、名物という鶏そばと鶏天を食べた。「ざびえる」は、大分に行ったことのある友人から、絶対に買うようにと言われていたもの。鶏そばは鴨南蛮とラーメンの中間のような中途半端な印象で、鶏天は身が固く、まえに小倉で食べたときのほうがおいしかった。あるいは、この日は空腹だった時間が長すぎて、逆においしく思えなかったのかもしれない。

 夕食は残念だったが、駅前だからという理由でてきとうに選んだホテルの共同浴場がなんと温泉で、さすが「温泉王国大分」だと感動した。しかも、早めの時間だったからか湯船をしばらく独占でき、旅行初日を大満足でしめくくった。

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