INTJ 不安と直観の起源
なぜ人は不安を抱くのか、その起源はどこにあるのか
「不安」とは、何か気がかりで落ち着かないこと、更に対象が明確で強い感情を伴うものを「恐怖」という。
過去に精神分析者の岸田秀氏の著作で「人は本能の壊れた動物である」という論述を興味深く読んだことがありました。(私の世界に対する認識は岸田秀氏の唯的幻想論にまあまあ触発されています)ここからは、「人は本能の壊れた動物である」という文を切り口に自称INTJ者の独断的「思いつき」を展開したいと思います。
直観は不安を起点としている
まず、野生の動物は不安を感じることはありません。何故ならば、本能に従って生きているからです。野生の動物から出発した人類は進化をするために本能を壊すことを選択しました。(科学的にはそれを大脳新皮質の発達というのでしょうが)
例えば、トムソンガゼルの群れは、敵である肉食獣の気配を察知すると、瞬時に逃避行動に入ります。本能により、生命危機に際して起こす行動が初期設定されているためです。プログラムが適切に働かず、出遅れたり、あらぬ方向に逃げてしまう個体は捕食されてしまう。本能によるプログラムが適切に作動する個体、種が残るように出来ている。そうゆう仕組みです。
霊長類の知能に基づく高次な行動とか、観光施設における動物の曲芸のように訓練された場合等を除き、動物の行動は本能に根ざしていると言えます。
ヒトはその本能が壊れているので、生命危機における最適行動を自動的にとることが出来ません。そのため、危機に対して怯えたり、事態を目の当たりにするとパニックを起こしてしまう。また、進化のために発達させた脳は、過去の情報や現実の変化といった環境刺激から、未来を想像、予測する機能を獲得しました。しかし、想像、予測する機能を持つが故に、ヒトは未だ起こらぬ危機や事態に対し恐怖や不安を抱くことになりました。
そして、原始から古代にかけて、大型肉食獣の外敵から捕食されたり、事故(崖や木から落ちる、川で流されるとか)、病気、災害等のリスクから、自身の生命や共同体の存続を守ることは、人類において何よりも優先すべき問題でありました。
その後、ヒトは、危険を予見することが、生存戦略上、必須となり、ひらめきや先読みをすることで危険回避の手段を得ました。骨や亀甲を用いた占い、災害の前兆や気配を感じ取る、気象をパターン化し風雨に備えるなど。古墳時代の「高床式倉庫」も現在でいうところのリスクマネジメントの一環でしょう。
直観の使い方の原点
自身や共同体を守るため、ヒトは様々な危険を予見しようとした。あらゆる情報をインプットし、関係なさそうな情報同士をも繋ぎ合わせ、あるひらめき(推論)を導き出す。そして、そのひらめき(推論)を実行する。結果的に、それが功を奏し、危険から回避したという成功経験を獲得する。
四足歩行から二足歩行に進化した時点で、他の動物のように優れた運動機能を失ったヒトは、代わりに本能を壊し、大脳を発達させ、直観にまつわる一連のプログラムを身に付け、個体や共同体を維持するためのシステム(占い、まじない、お告げのような呪術的なもの)を機能させていった。そして科学が発達した現代となっては、古代共同体維持システムの名残りである直観という働きは心理学界隈における理解し難い心理機能として広く認知されることになった…。
直観がわかりにくい理由
一般的に直観機能はわかりにくい機能だと称されます。内的直観を主機能とするINTJタイプは直観機能を無意識に用いていると言われています。唯物的価値観が主流の現代では目に見えない直観というものを理解することは難しいでしょう。原始から古代、そう中世の頃までは、目に見えない事柄に対する価値が高かったため、もっとリアルに体感されたり、存在づけられていたのだろうと想像します。
不安を上手に扱うことは難しいです。未来という不安に対しどのように処するか、直観を使うにしてもその向きが内向か外向かにより、その作用が正反対になりますし、それもまた大変興味深いところです。普通、不安と外向的直観はつながらないんじゃないの?という疑問もわいてきます。このへんも近いうちに考察したいです。
私の勝手な思いつき。長文、駄文、失礼しました。