短編小説
『命の糸端』
暮方に、遠き雑踏の音が僕の耳許に細々と繰り返し届いては、儚くパッと消えてゆく──。
◇◇
橙色のシフォンを世界中に羽織らせてゆくような殊更に美しい晩照が柔らかに差し込み始めたダイニングでは、いつもと同じく家族皆それぞれが深く椅子に腰掛けていた。
ふと娘が妻を呼ぶ。
「お母さん」
「ええと……貴女は、貴女は──誰?」
娘の言葉を受けた妻が戸惑いながらそう答える。
昨夜も見た光景だ。
医師の話によると、妻の頭の中で記憶の宝箱を開く鍵が突然合わなくなってしまったらしい。
アルツハイマー型の認知症だった。
仕方がなく僕が横から、
「明子だよ、僕らの娘の明子だよ」
と、コッソリ囁き、妻に伝えた。
が、予想通り、力及ばず。
依然として彼女は無反応のままだった。
ややあって、夕暮れは徐々に人々の不穏を誘い始めた。
「これはマズイ」そう僕が思った次の瞬間、妻の頭の奥底で矢庭にスイッチが《不安》の方向へと切り替わった。
「出て行って! 知らない人だ、怖い、怖い怖い怖い、出て行って! 出て行ってよォ!!」
動転し椅子から立ち上がり、酷く怯えて叫び始める妻。
そんな妻の背に、娘の明子はそっと手を添え、
「お母さんが私の事を思い出せなくても、お母さんはずっと私のお母さんなのよ……大好きだよ。だから、大丈夫──うん。まだ大丈夫よ」
そう呟くと、とても寂しそうに微笑んだ。
「でも──私、いったい何が足りないのかな。私の何が駄目なのかな。何が足りていないせいで、お母さんが──」
ああ。
僕ら家族の人生は、正しく千辛万苦の極みだ。
僕の目の前で、まるで連鎖するように明子までもが次第に不穏になってゆく。
それなのに僕は、そんな2人を側でただ一心に見つめるばかりという為体。
「どうしろって言うんだよ……」
無力な僕には、2人を見つめる以外は、他に何もできないのだ。
「ねえ──何が足りないの? 私の何が嫌なの? ねえ、お母さん……」
見る間に涙ぐむ明子。
すると、たとえ存在を思い出せずとも娘は娘であるというのか、まるで子の異変を感じ取ったかの如く、妻が娘の顔を両手で引き寄せ強引に視線を合わせて、唇を固く結び、つっと押し黙った。
それから、眉をクイと上げると何らかの思案に耽り始める。
眉をクイと上げるのは、妻が探し物をする際の癖だ。
若い頃からの、所謂《三つ子の魂》というヤツである。
彼女の眉は探し物が大切であればあるだけ上へ上へと上がるのだ。
そうして今、彼女の眉は最高峰の位置にある。
という事はつまり、妻は現在『頭の中で見付からないのは大切な娘の記憶なのだと本能の部分での理解が残っている状態』なのだろう。まるで魂の奥深き場所に刻まれているかのように。
僕は彼女達の様子を見つめながら、そんな何の足しにもならない夢物語ばかりを考えていた。
すると突然、崩壊寸前で心を理性の範囲内に無理矢理押しやった娘が気丈に言った。
「認知症なんかに、私の家族は奪わせないわよ」
しかしながら、妻は明日死ぬ。
そうして、娘はそれを知らない。
天よりそう定められているのだ。
急性心不全である。
「ごめんな、明子。君がこんなに苦しい状況だったとは、父さん、よく知らなかったんだよ……」
実は、僕は明子が16の時分に自動車事故で死んでいる。
僕は、妻の寿命が尽きる日が近付いたという事で故人のお迎えをする天部の手伝い役として許されて、1週間前より浄土から下り現世に留まっているだけの、しがない幽体なのだ。
家族を助けたくとも、何もできない。
幾度話しかけども囁き声の1つすら届かない。
《家族の人生から疾うの昔に居なくなった人》だ。
惨めだ。
「僕は、僕は無力だ。こんなの父親失格だよ」
いつの間に部屋を移動したのか、隣の仏間から僕の仏前に手を合わせている娘がしきりと呟く声が聞こえてきた。
「お父さん。お願いだから、お母さんをまだそちらには連れて行かないでくださいね。どうか私達を守っていてくださいね。お母さんが誰の事を忘れていても良いの、だから、連れては行かないでください。私を、1人にしないで──」
「明子……」
僕の写真に手を合わせて泣く娘の姿が何よりも悲しく、己が無力さが情けなく、類稀なる悔しさに堪え切れず、僕は歯噛みを繰り返した。
◇◇
翌日、居残りお月さんもいい加減我が家に帰りたそうな朝月夜の頃。
年を経たせいかすこぶる早起きになってしまった妻の為に、ダイニングには既に朝食が並べられていた。
軟飯、とろみのついた味噌汁とお茶、細かく解してある鮭、みじん切りにしてあるほうれん草のおひたし、ひきわり納豆。
立派な介護食だ。
娘の方を見やると、自分自身は冷めた米飯に適当に麦茶をかけただけの質素なお茶漬けで済ますしかないようだ。
彼女は、今日母親が死んでしまうとは露知らぬままで、一生懸命に母に話しかけ続けていた。
同じ答えだったり、よく聞いていなかったり、よく解らぬまま幸せそうに微笑んでいたり、逆によくは解らぬせいで声を荒らげてしまっていたりと、妻の反応は様々だったが、それでも娘は健気にも会話から母子の記憶を引き出そうとしている様子だった。
「たった1人で、頬もこけて、目にはクマ……明子、君は」
共に居ると辛い関係に陥ってしまう相手との方が何故だか通常より遥かに強く離れがたい気持ちになってしまう、その行場のなさは、その悪癖は、僕にもよく解る。
彼女の人生の半分以上で僕は側に居なかった筈なのに、彼女の性格は僕にとてもよく似ていた。
不思議だ。
「お母さん、美味しい?」
「ええと。貴女は、ええと。従兄弟姪の……?」
僕は冷蔵庫の上に置いてある青いデジタル時計を確認した。
妻の寿命が尽きる瞬間まで残り10分を切っている。
浄土での天部との会話が僕の脳裏を過った。
『絶対に、生者に触れてはなりませんよ。もしも禁忌を犯したならば、貴方は受苦無有数量処などに所定の期間行かねばならなくなりますからね』
『十六小地獄の──嘘つきの落ちるあの地獄に、ですか……』
『天部との約束は無下にし欺くものではありませぬゆえ、当然の沙汰でございましょう』
ハッと我に返る。と、既に妻が胸を抑えて蹲っていた。
「しまった、おい! 雪子!!」
「お母さん! お母さん、しっかりして! 救急車、救急車呼ばなきゃ! スマホ!」
スマホを取りに隣の部屋へと急いで向かおうとする娘。
「駄目だ明子行くな! 今母さんの側を離れたら2度と現世で話はできない、後悔するぞ!」
当然、娘には僕の声など一切聞こえていない。
耳の奥で天部の言葉がこだまをしている。
『生者に触れてはなりませんよ──』
『触れては──』
「じゃあっ、じゃあ物なら良いんだろう!!」
僕はそう叫ぶと同時に、バァンと破壊的な音を立てて冷蔵庫の扉を激しく開いた。
勢い良く落下したデジタル時計が、ダイニングチェアの下へと滑り込む。
「きゃあ! 何? えっ、何で冷蔵庫が勝手に開いて」
驚いて反射的に扉を閉めに戻って来る娘。上手くいった。
「──苦、し……痛っい……」
妻が、まるで藻掻くような仕草で娘の明子に助けを求め続けている。
「お母さん、ああ、どうしよう。どうしよう」
母親を抱きかかえつつ、明子はパニックに陥っていた。
昨日の彼女の涙が僕の胸中から離れない。
今しかない。
僕が家族の為にやれるかもしれない事は、最早1つしか思いつかない。
他には何も残ってなどいない。
僕は、妻に向かって必死で大声を張り上げた。
「思い出せ!!」
浄土に来る前に、僕と一緒に天に向かう前に、せめて娘の事を思い出してやってくれ。
せめて、名前だけでも呼んでやってくれ。
「明子だ! 雪子、思い出してくれ。いくら何でもこのままじゃ悲しすぎるじゃないか。せめて最期に思い出せよ! 彼女は僕らの娘、明子なんだぞ! 娘だ。娘なんだよ」
妻の命の糸は、今にも解けようとしている。
「お母さん、お母さん!!」
『触れては──』
『生者に──』
『当然の沙汰で──』
天部の声が僕の中でグルグルと周回している。
「しっ──知るかあっ!!」
僕は勢い良く妻の肩を掴んだ。
手の平に強く力を込める。
「雪子、雪子。思い出せ。これが最期のチャンスなんだ」
妻と目が合う。触れたせいで僕が見えたのかもしれない。
「僕らの事を思い出してくれるなら、僕ぁ地獄にだって甘んじて行くからさ。頼むよ……雪子」
「……」
妻が、眉1つ動かさぬままに僕と合っていた目線をそらし、震える両手で娘の右手を握った。
娘は泣いている。
「あ……」
か細い声で絞り出すように、妻が最期の言葉を紡ぐ。
「──ありが……とう」
そのまま雪子は、娘の腕の中で静かに逝った。
逝ってしまった。
最期に明子の事を思い出したのか否かは、結局のところ僕には少しも解らなかった。
◇◇
気が付くと、いつの間にか僕は眩い光の中心に立っており、いつも以上に穏やかな顔をした天部が近くに居た。
「あれだけ忠告いたしましたのに、生者に触れましたね」
「天部様──やっぱり、僕は地獄行きですかね?ハハハ……」
「ええ、勿論。それに、そのせいでお迎えの手伝いも果たせなくなりましたよ。もう奥様に貴方の姿は小指1つとて見えませんから、どうにも手伝いようがなくなりました」
「あの。あの、天部様。お教えを。僕の妻──雪子は、娘の明子の事を、最期に思い出せていたのでしょうか……?」
「さあ。それは御本人に直接お訊ねを。これではあんまり気の毒ゆえ別れの挨拶を交わせるように声の行き来だけは許せと、慈悲深きシッダールタは仰せですので」
「御釈迦様が……」
僕は、光の中で恐る恐る妻の名を呼んでみた。
「雪子、雪子──いるのか?」
「あら、あなた」
どこからか妻の声が聞こえた。当然、その姿は僕には全く見えなかった。
「おお雪子。雪子、僕の事を思い出したのか? 明子の事も?」
「アハ。おかしな事を言うのね、あなた達を忘れた事なんて1度もないわよ。それより、あなた、お迎えに来てくださったの?」
「え? ああ。でも……ごめん。一緒に行けなくなっちゃったんだよ」
「どうして?」
「ヤボ用ができちゃってさ」
「死後のヤボ用……?」
「雨後の筍みたいに言うなよ。相変わらず暢気だな。用が終わればまた逢えるさ」
「解ったわ……じゃあ、またね。私、あなたが来るのずっと待ってるわ。生きてる間中ずっとあなたに会いたいのを我慢してたんだから、あと少しだけ待つぐらいの事、余裕よォ」
「ハハハ──ああ、待っててくれよ。雪子、ほんとに……またな」
そう僕が別れの言葉を伝えると、刹那に幕が下りたように静かになり、その後は、これっぽっちも妻の声は聞こえなくなってしまった。
眩い周囲の光は徐々に薄れてゆき、次は黒い靄が現れた。
靄の奥には、喪主を務めている娘の姿が映っている。
「明子」
僕は、そうっとその靄に近付いて、すっかり細くなってしまっている娘の髪に優しく触れた。
「頑張ったな……」
初老に差しかかった白髪交じりの我が子の頭を、幼い頃にそうしていたように、何度も何度も繰り返し撫でる。
「父さん、死んでてごめんな。何っにも知らなくて──ごめんな」
娘は何も見えてなどいない様子ではあったが、何か気配の1つでも感じ取ったのだろうか、弔辞の途中で黙り込んでしまい何も言わなくなった。
「世界一頑張ったな、自慢の娘だぞ、最高だなァ明子は」
見えていなくても、聞こえていなくても、もうすぐ僕らに訪れるであろう永遠の別れのその瞬間まで、僕は娘を称えていたかった。
そのうち、明子はしゃくり上げ始めて、嗚咽を堪え切れなくなってゆき、人目も憚らずにワンワンと大声で泣き始めた。
と、靄の外側から顔の解らぬ数人の会葬者の姿がバタバタと姿を現す。
「無理しないで、頑張りすぎてたのよ明子さん」
「もう1人じゃないからね」
それをみとめ僕がホッと胸を撫で下ろした、その次の瞬間、周囲の光景がパチンと音を立てて弾けてしまい、黒い靄も娘達の姿もまるでシャボンの泡のように儚く消えてなくなってしまった。
最早、後に残っているのは一面に広がる真っ暗闇のみ。
「さ、行くか……」
1歩足を踏み出すごとに、舞い上がる灰と共に地獄への1本道が現れてゆく。
僕はその道を、1人の父親として、目をそらさずに、挑むように、真っすぐ歩いて行った。
了