【散文】自分に贈る言葉「蓼食う虫も好き好き」
(前書)この記事は、私自身の過去の日記をもとに、あの頃の自分になんか言えることがないだろうかと、ごちゃごちゃ考えてみたものを文字に起こしたものです。日記の抜粋と、現在の自分の近況と、そこから考えたこと、の3本となっています。
■・・・「誰にも見られませんように(笑)」、そう書き始めたノートより
〇・・・そんな私に近況報告
◇・・・そして思うとところ
■「誰にも見られませんように(笑)」、そう書き始めたノートより
高校生活、本当に意味があったのでしょうか、3年間、自分はいったいなにを頑張ったのでしょう。高校に入ってから本気でお腹を抱えて笑った記憶が少ないです。友達との付き合いかたがものすごく薄かった。ずっと思ってたけど、はやくあの人たちと離れたかった。自分から仲良くしようとしない私としては勝手にかまってきてくれる空気が楽だった。私みたいな人間に、いちいちかまってくれる人なんて貴重だから。でも本当に仲良くしていたかったのかな?仲良かったのかな?今は首を縦に触れない。帰りの電車がどれだけしんどかったか。もう少し、周りの人間を見回せる人になりたかった。
〇そんな私に近況報告
明るくて、誰とでも率先して話ができる人。明確で有用な目標があって、前向きに着実に実現できる人。そんな人、カッコイイよね。さぞ、毎日が充実して、楽しいに違いないよねぇ。ところが現在の私は、仕事もやめてひきこもっているよ。たぶん、一番自分が嫌悪していたみっともない、情けない人間って状態。でも、どうやら私は今の状態が嫌じゃないんだよ。むしろ心地よい。このままできるだけ長く過ごせないかとさえ考えている。
ちょっと前の私は、組織をまわすため、よりよくするためと思って粉骨砕身してきたつもりで働いていたのだけど、どうにも苦しくてね。この頑張りに意味はあるのか?って、疑問を感じていた。ほら、「意味はあるのか」だってさ。おんなじだねぇ。で、意味とやらが見出せなくて、辞めちゃった。とにかく「離れたい」と思ったから。おやおや、全く同じ。苦しくなったら、とにかく距離を置く。
最近の私は、目覚ましをかけないでも、朝起きられるっていうだけで幸せだし、今度、大学の後輩と一緒にライブにいく。その子とは旅行にも行くし、部屋にも泊まりにきてもらうような仲で、私はその子のことが大好き。辞めちゃった職場には、関わりたくない人もいたけど、大好きな人もたくさんいた。高校の時の友達とは、やっぱり連絡もとってない子がほとんどだし、幼馴染の子とも特に連絡をとる用事もない。でも、小学校の時に転校してきたあの子とは、近況を報告し合って、年取ったのに成長しないと笑い合ってるよ。そんなところ。
「意味はあるのか」って考えるときの「意味」が「有用であるかどうか」ってことだとしたら、働いていない最近の私の生活は「社会にとって」は意味がないだろうね。でも「私にとって」は意味があるよ。休憩。
◇そして思うとところ
「人見知り」「引っ込み思案」「ひきこもり」を克服しようとしてきたけど、結局もどってきた。
そういえば、幼い頃、悪ふざけでトイレに押し込められたことがある。小学生にもならない頃だったか、年の近い親戚、兄弟で遊んでいた時だ。どうしてそんな流れになったのかは覚えていない。記憶違いかもしれない。でも、ひとり泣きながら押し返す扉の向こうで、自分以外の皆の笑い声がする恐怖は、今でも簡単に私を薄暗い個室に押し込めるし、飽きられた瞬間、軽くなった扉に勢いつんのめる虚しさは、私の背中を突き飛ばす。
しかも、生来の泣き虫な性分と、父親との相性も悪かった。ことあるごとに「うるさい。びーびー泣くな」と怒鳴られた。何百回と怒鳴られた気持ちだが、回数なんか覚えていないから、実は1、2回かもしれない。
とにかく、私は「自分は拒絶されている人間」であると思っていた。しかも、必死にその根拠を集めていた時期があった。「嫌い」という言葉を耳にした時、状況がどんなものであろうと、(戯れや、自分に向けたもでなくても)簡単に深く傷ついた。
それが、あまりに恐ろしくて、他者との相性「好き、嫌い」を考えることすら「悪」としていたように思う。自分が拒絶されている人間ではないことを証明するためには、全てを受け入れる必要があるという考えに憑りつかれていた。「決して”自己チュー”であってはならない」と自分に繰り返し言い聞かせていた。
そうして周囲を受け入れることにばかり注力していると、不思議なことに自分しか見えない自己中心的な状態になる。自分のために他者を受け入れているのに、他者のためにしていると思い込む。相手が不快な思いを示したとき、何がよくなかったのか言動を省みることができず、拒絶された恐怖に悲しみと怒りを感じる。受け入れられたい「拒絶されている人間」は「自分」であることは、すっかり無意識の闇に溶け込んでしまっているのである。
他者からの「拒絶」は、自分との「差異」にしかすぎない。ということを理解し、自分を「拒絶されている人間」に貶めているのは自分自身であると気が付くためには「自己」が必要なのだろう。ただ、この「自己」ってヤツを言葉にしようとするとまた、どうにも厄介だ。
とにかく、私は人付き合いが苦手だ。出会う人たち全員と良好な関係を築けないから。でも、私には友達は100人も必要なかった。私とは仲良くならなかった「あの人」も、そうだったのだろう。
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