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『ペルシアン・ブルー20』
25 ミラナの章
麻の帳に囲まれた寝台で、パリュサティスが寝入った後、ミラナは小さな明かりを持って、そっとバルコニーに出た。
岩山の一部に穿たれた、手すり付きの見晴らし台である。半月は西の岩山の向こうに沈み、涼しい夜風の中、星だけがはるかな高みにきらめいている。真下の庭園は、暗くて何も見えない。時おり、何かの獣が草地を走り抜ける気配がある。大きな獣ではないが、それなりに生き物たちが暮らしているのだ。
昔はこのあたりにも、もっと多くの泉があり、緑が茂り、動物も多かったと、魔王がふと、洩らしたことがあった。今は彼の力で、かろうじて最後の庭園を維持しているらしい。人の世界に住めない彼には、砂漠のただ中しか居場所がないのだろう。
――あの人は、この岩山のどこにいるのかしら。
ミラナの考えはいつも、魔王のところへ飛んでしまう。不機嫌な顔をした、背の高い男。
もしかしたら、魔力さえなければ、普通の男性と違わないのではないだろうか。自分の気持ちを隠すことに慣れてしまった、孤独な男性と。
彼だって、子供の頃は、きっと無邪気に笑っていたのに違いない。最初から、魔物として生まれたのではないらしいから。何があって、ああいう風になってしまったのか。救ってくれる人は、誰もいなかったのか。
ものを食べないのなら、夜も眠らないのかしら。わたしと同じように、いま、この夜空を眺めているのかしら。
眠らずに過ごす夜は、どんなに長く、侘しいものだろう。
――それなら、眠れないわたしと、話をしに来てくれればいいのに。
パリュサティスはこちらの安全を心配してくれるが、半分以上は誤解なのだ。魔王がミラナに、そういう意味で〝手出し〟をしたことはない。ただ、いつもこちらの言葉が届かず、彼の冷笑の壁を崩せないことが悲しいだけ。
――たぶん、あの人は、人を信じられないという呪いにかかっているのだ。
夜風の中で、岩の手すりにもたれたミラナは、ため息をついた。本人が、もはやそれを変えようと思っていない。きっと、苦しいはずだと思うのに。
それでは、呪いというのは、人が自分自身にかけるものなのかもしれない。いったんそれに囚われてしまうと、もう二度と、素直な感じ方、考え方ができなくなってしまうのかも……
パリュサティスが差し伸べた手も、彼は取らなかった。いたずらに魔力を浪費するだけでは、彼自身が不幸なだけではないか。何か、人の役に立つことをすれば、冷たい躰のままでも、今よりもっと楽になるだろうに……
背後に、人の気配が立った。砂と小石を踏む、わずかな足音がする。岩山の部屋は、いくら掃除をしても、すぐに風が砂を運んでくるのだ。
ミラナは恐怖よりも、嬉しさで振り向いた。魔王が話をしに来てくれた、と思ったのだ。冷たいことを言われても、軽蔑されて突き飛ばされても、無視されるよりはずっといい。
しかし、そこにいたのは……長身の魔王より、一回り小さな影だ。見慣れた立ち姿は、こちらに手を差し伸べている。
「ミラナ、そなただな?」
「……アルタクシャスラさま!!」
信じられないが、王子に間違いない。ミラナは思わず前へ出て、両手で王子の手にすがりついた。温かく、乾いた手だ。ざらざらに荒れていることが、ここまでの苦労を物語る。
「どうして……どうして、ここまで……よく……よく、あの大砂漠を……」
「長く待たせたな。怖かっただろう。すまなかった」
長い黒髪を束ねた王子は、静かに微笑んでいる。
「わたしの弱気で手放してしまったが、やはり、パリュサティスを失えないとわかったのだ。そなたも一緒に、国へ帰ろう。もう、そなたたちを悲しませるようなことはしない。いや、結果がどうなるかはわからないが、誰と戦うことになっても、パリュサティスを守るつもりだ」
ミラナは口を押えた。こらえなければ、泣いてしまう。わずかな灯心の明かりの中でも、王子のやつれ方は明らかだった。肌は日に焼け、金糸や宝石を縫い込んだ豪華な衣装もあちこちほつれ、破れている。それなのに、まず笑顔で、こちらをいたわってくれるのだ。
(これで、姫さまは救われる……結果がどうなろうとも、アルタクシャスラさまが来て下さったのだもの)
けれど、自分は?
魔王のことが、もう頭を離れない自分は?
「ここまでパリュサティスについてきてくれて、本当に感謝する。ずいぶん、苦労をかけただろうね」
「いえ、そんなことは……」
パリュサティスのためには嬉しかったが、ミラナ自身にとっては、喜びと恐れのどちらが大きいかわからない。
(あの人とアルタクシャスラさまがぶつかれば、必ずどちらかが倒される……!!)
それはもう、避けることのできない運命だろう。無敵の魔王といえども、人間たちの団結には勝てないかもしれない。あるいは逆に、王子の知恵も勇気も、魔王には通用しないかもしれない。
ただ一つの慰めは、いま、王女の無事を報告できることだ。
「すぐに、姫さまをお起こして参ります。とても元気でいらっしゃるので、ご安心ください。かすり傷以外、何のお怪我もありませんから。あの、それに……ダラヤワウシュさまのお手も、まだ付いていません。姫さまは、無垢のままでいらっしゃいます」
アルタクシャスラ王子は、微笑もうと努力したものの、苦い顔になった。
「すまない。わたしが愚かだったために、そなたたちを苦しめたな。兄上に逆らうのが恐ろしくて、あの子の気持ちを裏切った……」
「いいえ、そんなこと……」
もう、いいのだ。ここまで来てくれた。それが全てだ。
「生きて国に戻れたら、もうパリュサティスを離すことはしない。もっとも、あの子がわたしを許さないかもしれないが」
「いいえ、そんなことは決してありません。姫さまは、今でもアルタクシャスラさまを愛しておられます」
パリュサティスが決してこの兄のことを口に出さないことで、ミラナにはそれがわかっていた。
(アルタクシャスラさまにも、迷いがおありだったのだわ。兄上さまに逆らうことは、帝国を割ることになりかねない。けれど、決意して姫さまを迎えに来てくださった。それで充分……)
「ミラナ、話を聞いてくれ」
アルタクシャスラはミラナと一緒に暗い室内に入りながら、やや声をひそめた。
「実は、魔法の腕輪の助けを借りている。これをはめていれば、直接見られない限り、魔王に気づかれないで済むという」
何ですって。
「部下たちも近くまで来ている。何とかして、魔王の背後からこっそり近づきたいのだ。奴はいつも、どこにいる? 何か、奴の弱点のようなものを知らないか?」
そんな腕輪が宮殿の宝物蔵にでもあったのかと、ミラナは動揺した。単純な武勇だけのダラヤワウシュ王子と違い、アルタクシャスラ王子は知恵と勇気を兼ね備えている。たとえ相手が魔力を持っていても、勝つ方法を捜し当てるかもしれない。
喜ぶべきことなのに、不安が強くなる。あの人の弱点など知らなくてよかったと、ミラナはつい思ってしまう。
「それが、いつも風のように現れて、すぐにどこかへ消えてしまって、わたくしたちの前には長くいないのです。ものを食べる必要もないようですし、お酒に酔うかどうかさえ、わかりません……」
するとアルタクシャスラは、提案してきた。
「乙女にこんなことは頼みにくいが、ミラナ、そなたは勇気のある娘だ。色仕掛けで奴を油断させて、隙を作ってもらいたいのだが」
ミラナは胸がとどろき、強い不安に震えた。顔は熱いのに、手足は冷たい気がする。
「そんな、まさか、わたくしなどが……」
そんな企みこそ、魔王が最も嫌悪することだろう。こちらがわずかでもそんな気配を見せたら、汚らわしいとばかり、その場で叩き殺されてしまうのではないか。
しかし、アルタクシャスラ王子が殺されることになったら、それこそパリュサティスはどうなるか……自分がここにいるのは、姫を守るためではないか。魔王のことを考えてしまうのは、余計なことだ。
もし、自分が死んでも、王子が魔王を倒せるのなら……それは、意味のある死に方ではないか。
「わかりました。何か……何かやってみます」
ミラナはそう答えた。何が出来るのか、自分でもわからなかったが。
「でも、まず魔王の居場所を探すだけでも、時間がかかると思います。この岩山の中には、まだ調べきっていない通路もあるので。アルタクシャスラさまはどうか、姫さまのお部屋に隠れていらしてください」
そうして王子を、仕切り布の向こうの寝室に案内した。パリュサティスは大きな寝台の半分で、ぐっすりと眠っている。
近頃はこうして、自分の寝台の半分を、ミラナのために空けてくれていた。枕元には剣を置き、寝台の下には手作りの弓矢を置いている。ミラナとしては、魔王が夜中に自分を襲いに来るとは、思えなかったのだが。
本当はこれまで通りに、控えの間の寝台で、一人きりで眠りたかった。けれど、パリュサティスの気遣いを無にすることもできず、遠慮しながら隣に寝かせてもらっていた……そういう日々も、今夜で終わるのだろう。明日にはもう、寝台など、永久に必要ない身になっているかもしれない。
「パリュサティス、相変らずだな」
小さな油皿の火で、生傷の絶えない手を眺め、アルタクシャスラは微笑んだ。毎日、剣を磨いたり、魚を取る網を作ったり、岩に文字を刻んだりしているからだとミラナは説明する。
「本当に元気そうだ、よかった」
その声音に、昔と少しも変わらない愛情を感じて、ミラナは深く安堵した。
――あとは生きるも死ぬも、お二人の運命。
そう思うと、侍女としての自分の役目を終えたような気がした。たぶん、そうなのだ。あとはただ、アルタクシャスラ王子のために機会を作るだけ。
――姫さま、これで最後かもしれません。お別れを言いたくないので、このまま行きますね。どうか、よい夢を。目を覚ましたら、アルタクシャスラさまがいらっしゃいますよ。
「もしかしたら、魔王は今は留守かもしれません。よく、海やナイルの方へ飛んでいるらしいのです。とにかく、一回り見てきますので、どうか焦らず、ここでお待ちくださいませ」
改めて身なりを整えてから、ミラナは部屋を出た。照明用のオリーブ油を入れた小さな陶製のランプを掲げて、岩山の中に掘り抜かれた回廊の暗闇をたどり、あてもなく歩きだす。
もう、パリュサティスとは二度と会えないかもしれないが、構わない。これまで、十分に幸せだった。自分に出来ることは、全てした。
そう思うと、奇妙に身軽な気持ちだった。
いま、本当の一人になったのか。
それはそれで、砂漠の夕暮れの乾いた風に吹かれるように、爽やかだ。
(でも、あの人はどこに……)
本当は、歩き回って魔王の部屋がわかるとは、あまり思っていなかった。昼間でさえ、岩山の中の通路は迷路のようなのだ。夜の闇の中では、脇道を見逃がしてしまいかねない。ただ、一人になって、考える時間が得られたことが有難い。
何とかあの人を説得して、気持ちを和らげてもらうことはできないだろうか。姫さまとアルタクシャスラさまを、それにお供の兵士たちを、見逃してもらえさえしたら。
(もし、わたしを殺して気が済むのなら……いえ、だめだわ。そんなことをしたら、姫さまが許さない。ああ、どうしたら……)
空しく考えながら、ミラナはぐるぐると岩の回廊を歩き回った。石の階段を登り、また下り、途中の小さな窓から夜空を眺め、火の帯の照り映えが、夜空の底を薄赤く染めているのを見る。
ふと気がつくと、暗がりの奥に、まだ調べたことのない階段があった。今日まで、見落としていたのだろうか。
ゆるい螺旋をえがく石段を上がっていくと、闇に隠れていた小さな動物がキーキー鳴いて逃げていったり、後ろでシャリシャリといやな音をたてたりする。しかし、気にしているゆとりはない。
やがて階段は終わり、ちょっとした広間のような場所に登りつめていた。周囲には太い岩の柱が何本も巡らされ、薄い麻の帳が幾重にも垂れて、壁のくぼみに置かれたランプの明かりが、椅子やテーブル、寝台などのわずかな調度を照らしている。
ここには、人の暮らす気配があった。テーブルには、水差しやナイフなどの品物もある。
「夜中の散歩が趣味か?」
背後からの声にびくりとして、振り向いた。いつの間にか、黒衣に包まれた男性が、岩の柱の横にいる。歩き回って本当に会えるとは、ミラナは自分でも驚いてしまう。
「あの……ここは、あなたのお部屋なのですか」
「姫に上がってこられると面倒だからな。普段は、岩の壁を閉じている」
それを今夜は、自分のために開けてくれたのだろうか。それとも、たまたま開いていただけ?
「ちょうどいい。面白いものを見せてやろう」
言われて彼の足元を見ると、そこには岩の床に掘り込んだ四角い池があり、それはどうやら、遠くのものを映せる水鏡になっているらしい。険しい絶壁の下に陣を張り、見張りを立てた軍勢の様子が、手にとるように映し出されている。
「なかなか楽しませてくれる連中だ。ここまで来るとは思わなかったぞ。砂で火を消すとは知恵が回る」
ミラナは恐怖をおぼえた。こんなに何もかも見通せるなら、アルタクシャスラさまが忍び込んでいることも、とうに悟られているのではないかしら? 魔法の腕輪というのは、本当に役に立っているの?
「それにしても、役立たずの竜め、人間どもを脅す役にも立たんとは」
魔王は不快げに言うだけで、危機感を持ってはいないらしかった。この自分が一度力をふるえば、人間の兵士たちなど木の葉のように吹き飛ばせる、という自信があるらしい。
「あの、竜というのは?」
「そうか、まだ見せていなかったな。今度、連れていってやる」
今度。そんな機会があるのだろうかと、ミラナは悲しい。
「死に損ないの老いぼれ竜だが、珍しい生き物だ。一見の価値はある。ただし、姫は抜きだ。大喜びするに決まっているからな」
やはり、魔王は姫さまが苦手なのだとミラナは思う。姫さまの明るさ、素直さが、呪いのかかった身には、まぶしすぎるのに違いない。
「そら、気取りくさった軟弱王子がいる。さすがにこの絶壁は、どう攻めていいか悩んでいるらしい。もうしばらく、悩ませておいてやろう。簡単に殺しては、つまらんからな」
魔王は水鏡の中を示し、ふんと冷笑した。ミラナは一瞬、混乱してしまう。兵たちに混じって、黒い油を使った篝火の間に立っているのは、長い黒髪の麗しい王子ではないか。
でも、アルタクシャスラさまは今、姫さまのお部屋に隠れていらっしゃる。間近でお話したのだから、間違いない。では、軍勢と共にいるのは影武者なのだとミラナは思う。きっと以前から、ご自分そっくりな若者を、密かに捜し出していらしたのだろう。アルタクシャスラさまなら、そのくらいの用心はなさっていて不思議はない。
こうして魔王が油断しているうちに、王子が忍び寄るのだとしたら……
「それより、おまえは何だ……この夜更けに、俺の部屋の掃除に来たとでも言うつもりか?」
水鏡のほとりで、ミラナはかっと熱くなる。男性を誘惑するなど、これまで試したこともないし、疑い深いこの魔王に、下手な媚態など通用するわけがない。それより、何か話をしなくては。
「あの……あなたの身の回りには、お世話をする人はいないのですか」
すると、魔王はつまらなそうにそっぽを向いた。
「さらってきた女どもは、隙さえあれば俺に毒を盛ったり、短剣で刺したりしようとするからな。そばには置かん。もっとも、そんなもので俺を殺すことはできないが」
やはり、彼は用心している。
アルタクシャスラ王子のために何とかしなければと思う気持ちと、この人が簡単には死なない身だということに安堵する気持ちとで、ミラナは揺れ動いていた。すると、帳の巡らされた柱の奥に歩んだ彼が、
「ここへ来い」
と声をかけてくる。
追い出されるよりはずっといいので、急いで帳をめくってその一隅に入ると、そこには、白い毛皮を敷いた大きな寝台があった。ミラナがためらって立ち止まると、横から延びた手が、素早く飾り帯をつかんでほどき、毛織物の上衣をするりと肩から落とす。
その下は薄物一枚なので、ミラナは慌てて両腕で胸を隠した。背後に立った男は構わず、冷たい手でミラナの肩をつかむ。ミラナが思わず息をのむと、耳許で低くささやくように言う。
「逆らうな。逆らうと、姫がどうなっても知らんぞ」
ぞくりとしたのは、脅されたからではなくて、後ろから、冷たい躰に強く抱きしめられたからだった。
髪に唇をつけられることも、大きな手で肌を撫でられることも、ミラナには初めての経験である。彼は片腕でミラナを抱きながら、もう片手で肩から腕、胸を確かめた。ミラナの髪に触れ、頬に触れ、あごから首筋を撫でる。そして、胸を守っている薄布をはがそうとする。
「だめ、いや……」
ミラナが身をすくめてそう言ったのは、嫌悪などではなく、ただ、どうしていいかわからないからだった。これまでは、冷たいことを言い、すぐに飛び去ってしまう人だったのに。まさか、本当に、こんなことになるなんて。これは、色仕掛けということになるのかしら……
「じっとしていろ」
そうは言われても、肩や首筋に唇を這わせられたり、大きな手の中に胸のふくらみを握りこめられたりすると、ミラナはどうしても呼吸が早く、苦しくなってしまう。何かされる度、喉から勝手に声が洩れてしまう。これが、感じる、ということなのだろうか。年上の侍女たちから、話だけは聞いていたけれど。
「あっ」
ミラナは幾度も震え、びくりと身をすくめた。強い腕の中に抱かれ、あちこち撫で回されていると、力が抜けて、床に崩れてしまいそうになる。
「だめ、お願いです、やめて……」
身をすくめて抗ううち、もつれ合うようにして毛皮の上に倒れこんでいた。ミラナの上にのしかかる男は、無言のまま、何かを確かめるような冷たい口づけを繰り返す。頬に、耳許に、唇に……
強引ではあるが、乱暴ではなかった。少なくとも、わたしは殴られてはいないとミラナは思う。わたしの腕を押さえる手も、わたしの骨を折るような力は加えていない。わたしが抗うことをやめると、彼も力をゆるめていく。
ひんやりする手に触れられ、ひんやりする唇に口づけされていると、次第に怖さが薄れていった。
いいえ、元々わたしが恐れていたのは、この人に無視され、軽蔑されること。少なくとも、今は相手にしてもらっている……
ミラナは途中で、魔王の唇に指をあて、尋ねずにはいられなかった。
「いつも……こんなに冷たいの? 温かく、ならないの?」
その手を握り、魔王は少し身を起こした。夜のように黒い目でミラナを見、その指に口づけする。
「一度、死んでいるからな……だが、おまえに触れると、少しだけ温かい」
薄々はわかっていたはずなのに、ミラナは衝撃を受けた。この人は、人間として一度死んでいるのだ。
そして、それはきっと、辛い死に方だったに違いない。普通に死ぬことができなかったから、こんな冷たい躰になってしまったの?
それなら、温めてあげたいと思った。いくら魔王でも、芯まで冷たいのはきっと辛いわ。わたしの体温を、少しでも分けてあげられるなら……
その時、不吉な光が目の前をさっと横切った。古い垂れ布が切り裂かれ、何かが宙に舞う。
弾んで床に転がったものが何なのか、ミラナは、すぐにはわからなかった。石の柱の側に立っているのは、深い呼吸をしているアルタクシャスラ王子だ。手に抜き身の長剣を下げ、床の上の黒い塊を見下ろしている。
「ミラナ、よくやってくれた」
ゆっくりと見下ろすと、半ばこちらに重なり、毛皮の上にうつ伏せに倒れているのは、魔王の胴体だけだった。黒衣に包まれた、たくましい肩の上に、首がない。あたりには血も流れず、まるで乾し肉を割ったような、白っぽい切り口を見せているだけだ。切り離された首は、黒髪を乱したまま床に転がっている。
ミラナは悲鳴をあげた。生まれてから今日まで、こんな絶叫をしたことがない。
「ミラナ、落ち着きなさい、怖がらなくていい!! 今のうちに首を始末すれば、魔王といえども復活はできないはずだ」
驚いた王子は、剣を捨ててミラナを抱きかかえた。けれど、ミラナは激しく身をよじって叫ぶしかない。
「いや、いや、違う、こんなつもりじゃ……」
たった今まで、自分は確かにこの人の腕に抱かれていた。冷たい口づけを受けていた。ほんのわずか、大切なものに触れられたと思ったのに。
「離して、離してくださいっ」
床に転がった首に駆け寄りたくてもがくうち、ミラナは目の端に白いきらめきを見た。はっとして顔を向けると、首のない胴体がいつの間にか起き上がり、捨てられた長剣を振り上げて、アルタクシャスラ王子を狙っている!!
ミラナが王子を突き飛ばすのと、鋭い剣が背中を裂くのが、ほとんど同時だった。
「ミラナ!!」
アルタクシャスラ王子が叫ぶ声を遠くに聞きながら、ミラナはよろめいて膝をつき、寝台の端につかまろうとして、そのまま床に倒れこんだ。
痛いというよりは、重い。
重く鈍い波が、全身に広がっていく。
――あの人は、わたしが王子さまの手引きをしたと思っただろう。恩賞目当ての女、そう思われても仕方ないけれど、でも、それは殺し合いをしてほしくなかったから……ずっと前にも、こんなことがあったような気がする……何とかしようとして、できなかったことが……
けれど、もう何も見えず、何も聞こえなかった。血が流れ出して、寒くなっていく。死ぬというのは、こんなにも寒いことだったのだ……
「ペルシアン・ブルー21」に続く