
『ペルシアン・ブルー24』
30 元魔王の章
彼が目を覚ました時、そこは、いつもの岩山の天辺の部屋だった。毛皮を敷いた、大きな寝台の上にいる。
だが、何かいつもと様子が違う。喉が渇いている。それに、小さな窓の向こうに見える青空が、やけにまぶしい。
眠っていたのだろうか。しかし、もうずっと、眠れたことなどなかったのだが……
目をしばたいているうちに、岩の階段を昇ってくる足音がした。そして、戸口のあたりで叫ぶ声がする。
「みんな、来て、彼が目を覚ましたわよ!」
あれは、子猿姫の声……だが、登り口には普段、目くらましの結界を張ってあるのだから、姫がこの部屋に上がってこられるはずはない。やはり、何かおかしい。妙に躰が重い。まるで、熱でもあるかのように……
熱。
気がついて、黒髪の男は額に手を当てた。対比のために、寝台の木枠や岩の壁にも触れてみる。それから再度、自分の額に戻る。おかしい、この温度は何だ。俺の躰が温かいはずはないのに。
だが、階段を上がってぞろぞろと現れた人影を見て、彼はぎょっとした。
青い衣装と宝石で着飾ったスメニアと、はるか昔に氷浸けにした、もう一人の精霊の女。銀の水差しを持った赤毛の小娘。そして、果物の籠を抱えたミラナ。その女たちが、鳥のように一斉にさえずりだす。
「ほうらね。ちゃんと生き返るって言ったでしょう」
「でも、見事にばらばらだったもの。あれを、よくつなぎ合わせたわよね」
「ヤスミンと二人がかりでも、苦労したからね。ミラナの十倍は大変だったわよ」
「でも、記憶はあるのですか? 手足は動くのですか?」
「経過はいいようよ。まず、何か飲ませてあげましょう」
色々と思い出して、彼は飛び起きた。情けないことに、素裸だ。途端に目眩がして、よろめき、岩の柱に手をつく。
ミラナが大怪我をしたのだ。そしてあの女が、助ける方法があるとぬかし、俺の心臓に剣を突き立て……俺はいったい、どうなったのだ?
「無理に動かないで。あなたは、一度ばらばらになって、生まれ変わったのよ」
女たちは左右から元魔王に手を貸して、寝台に座らせる。ミラナが心底、嬉しそうな顔で言う。
「魔女さまが、助けてくださったんです。あなたは元通り、温かい躰に戻ったのですよ。あなたに憑いていた悪霊たちは、もういなくなりました。みんな、魔女さまが吸収して、浄化してくださるんですって」
言っていることがわからない。俺がどうなったと?
「あとは、人間として残りの寿命を生きるのね。ミラナは、喜んであなたの世話をしますって」
スメニアは勝者のゆとり、とでもいう態度だった。女たちはみな微笑んでいて、彼のことを、可愛いものでも見るかのように見守っている。
――冗談ではない。畏怖されてこそ魔王だ。
「ふざけるな……俺は、全身をばらばらにしていいとは言わなかったぞ」
「だから、ちゃんと元通りにしてあげたじゃない。ついでに、心臓も動いてるわよ、五百年ぶりに」
言われて、元魔王は裸の胸に手をやった。規則的な鼓動がある。そんなばかな。
「おまえ、ミラナは助からないと……悪霊に憑かせて、俺のような躰にするしかないと……」
「あなたがあんまり素直に信じてくれたものだから、申し訳ない気がしたわ。あたしの一族は、昔から、人間たちの病気や怪我の治療に手を貸しているのよ。あれくらいの傷、すぐに治せたわ」
金褐色の長い髪をした魔女は、鼻高々と言う。そういえば、彼女自身の顔の傷もきれいに消えている。
「難しいのは、あなたの始末だったのよ。でも、あなたに憑いていた霊たちは、あたしが引き受けたから安心して。心の豊かなあたしと一緒にいれば、いずれ癒されて消滅していくわ」
――だまされた。ミラナに対する未練を利用された。しかし、俺が力をふるえば、こんな奴らは木切れのように吹き飛ぶ。恐れ入って泣き叫ぶがいい。
だが、彼が怒りをこめて腕を振り伸ばしても、部屋の空気はそよとも動かなかった。もう一度手を振っても、何も起こらない。魔女が哀れむように言う。
「無駄だってば。あなたはもう、魔力をなくしたのよ。元々、人間には必要のない力だったのだから、あきらめなさい」
彼が呆然として自分の両手を眺めていると、水の杯を持ったミラナが足元に膝をついた。輝くような顔で、こちらを見上げてくる。
「元気になられるまで、わたくしがお世話します……まず、栄養をとらないと」
反射的に、彼はミラナの顔を平手で打っていた。侍女はあっけなく床に倒れ、杯の水があたりにこぼれる。
「何をするの!!」
パリュサティス姫がとんできて、誰が止める暇もないうちに、遠慮のない力で彼の顔をひっぱたく。しかも、往復びんただ。一往復半。顔がひりひりする。
「ミラナだって、まだ病み上がりなのよ!! 大体、ミラナが大怪我したのは、誰のせいだと思っているの!! あんたがミラナを助けようとしたって聞いたから、許してやることにしたのよっ!! そういう態度をとるのなら、看病なんかしてやらないからねっ!! 勝手に飢え死にすればっ!!」
「姫さま、どうか」
ミラナが脇から手を伸ばし、姫の上着の裾をつかんだ。
「この人はまだ、混乱しているのです。じきに落ち着きますから、どうか……」
「いいえっ、こんな根性だから、悪霊なんかに憑かれるのよ。霊を浄化してやれるスメニアとは、えらい違いだわ。人間に戻っても、こいつはクズよ!! ミラナが心配してやることなんかないわ!!」
元魔王には、鞭打たれたような痛みが走った。どこかが痛い……こんな感覚は久しぶりだ。胸が痛む、のか?
「悪かった」
彼はつい、言っていた。
――確かに、俺は頭が悪い。まんまと魔女にだまされた。魔力を失うことになるとは思わなかった。
しかし、それでも、病み上がりのミラナを打つ必要はなかったのだ。
癖っ毛の赤毛を首の後ろできりりと束ねた姫は、元魔王を不信の目で眺めていたが、やがて、くるりと踵を返す。
「あたしは忙しいの。兄さまが連れてきた兵たちと、合流しなけりゃならないし。兵たちにも、怪我人や病人がいるのよ。ミラナ、そいつの看病は任せたわよ」
そして魔女たちも、姫に続いて部屋を出ていった。後に残ったミラナは、水差しから杯に水を注ぎ直している。彼はためらいながら、手を差し出した。温かいミラナの手に触れて、杯を受け取る。ゆっくりと口に運ぶ。
もしかしたら、何かを飲むということ自体、途方もなく久しぶり、か?
冷たい感覚が、喉から胃の腑へ落ちていく。砂漠の乾いた空気の中では、ただの水が、まるで天国の甘露のように感じられる。
これまでの自分は、喉の渇きというものすら忘れていたのだ。日差しのまぶしさも、空気の熱さも、胸の鼓動も。
杯を返しながら、彼は改めてミラナの顔を見た。白い片頬に、赤く手の跡が浮かび上がっている。痛かったはずだ。力任せに打ってしまった。姫に打たれた自分の顔も痛むから、ミラナの痛みもわかる。
「すまない」
面白がっている見物人たちがいないと、彼も少しは素直になれた。ミラナに憎まれたくはない。こいつが愛しているのは、あの王子かもしれないが、少なくとも、つい今しがたまでは、俺に好意を見せてくれていたのだから……
「いいえ」
ミラナはぎこちなく微笑み、それから床の上に正座したまま、顔を伏せた。
「今まで持っていた力を失ったのですから、辛いでしょうね。わたくしには何もできませんけれど、せめて身の回りのお世話くらい……」
喉が痛む気がしたが、彼は尋ねた。
「王子の世話は、しなくていいのか」
勝負に勝ったのは、アルタクシャスラ王子ということになる。全てを得るのは勝者だ。俺にはもう、何もない。王子に処刑されても、文句は言えない立場だ。
するとミラナは、やや遠くを見る視線になった。
「アルタクシャスラさまには、親衛隊の兵士たちがいますわ。それに、じきに姫さまと国へお帰りになるし……」
まるで、自分は、姫に同行しないかのようなことを言う。
彼が驚いたことに、ミラナは覚悟を決めた、という晴れやかな笑顔を見せた。
「姫さまには、もう、お別れを申し上げました。魔女さまが、あなたの落ち着き先を見つけてくださるそうです。わたし、あなたについていくつもりです」
――何だと。
いきなりそんなことを言われては、こちらの方がうろたえる。
「おまえは、王子と離れていいのか? あいつを待っていたのだろう?」
「もちろん、姫さまのために、アルタクシャスラさまを待っていましたわ」
ミラナはにっこりする。
「でも、もう心配ありません。迷いをお捨てになれば、アルタクシャスラさまは強い方ですもの。姫さまとご一緒であれば、どんな困難も乗り越えていかれます。放っておけないのは、あなたの方だから……わたし、あなたの側にいて、お世話をしたいと思います。迷惑ですか?」
喉が奇妙な熱さで詰まって、うまく声が出なかった。遠い昔にも、こんなことがあったのを覚えている。
――だが、結局のところ、俺は処刑され、あいつは他の男のものになり……
しかし、それでも、一緒に暮らしたあの短い期間、彼は確かに幸福だった。愛情というものを、この肌身に沁みて感じていた。あれを知らないまま終わるより、知ってから失う方がまだましだったと、今は思える。
それならば、もう一度、試してみてもいいだろうか?
いつ終わりになるかわからない、もろい幸福だからこそ、それを大切にしよう、と考えてもいいか?
魔力に未練がない、といえば嘘になるが、自分が本当に欲しかったのは、たぶん、そんなものではなかったはず。空を飛ぶ力があっても、砂嵐を起こす力があっても、この地上に一人きりでは、何の意味もないことなのだから。
「一緒に、いてくれ」
彼は頼んでいた。そっと腕を伸ばして。
「残りの時間、ずっと、大事にするから……」
ミラナの熱い躰が腕の中に飛び込んできて、彼にしがみついた。いつしか二人とも、泣き笑いの顔になっていた。
『ペルシアン・ブルー25』に続く