『ペルシアン・ブルー21』
26 パリュサティスの章
夜中、ふと目を覚ました。どこか遠い所で、雷が轟く音を聞いたような気がする。この大砂漠にも、雷雲は来るのだろうか。
「……ミラナ?」
パリュサティスは暗い寝台の上で起き上がり、隅の台に置かれた小さな明かりの元で、岩をくり抜いた室内を見渡した。隣で寝ているはずの、ミラナがいない。まさか、魔王に連れて行かれたのでは。
(あの、不届き者が……よくも)
かっとして、素足で床に降り立った時、かすかな甘い香りに気がついた。懐かしい、砂漠で取れる香料の匂い。
子供の頃は、よく、この香りに包まれて眠ったものだ。アルタクシャスラ王子は、しばしば献上品の高価な香料を使っていて、髪にも肌にも、その香りが染みついていた。
でも、まさか。そんなはずは。
それから、パリュサティスは気がついた。岩のバルコニーから見える夜空は、よく晴れている。銀の砂を撒いたような星空で、雲などない。さっきの雷のような音は、地底から聞こえたのではないか。
急いで上着を羽織り、革のサンダルを履いた。油皿の火を松明に移し、手製の弓矢を収めた矢筒を背負い、腰帯に剣を差して、パリュサティスは岩山の中をたどる通路に出た。
やはり、そうだ。
魔王が岩で塞いだ地底への通路が、再び通れるようになっていた。岩の目に沿って木の楔を打ち込み、繰り返し水で湿らせておいたものが、ついに効いたのだ。大岩は二つに割れ、その真ん中に、パリュサティスが通れる程度の隙間ができている。
それならば、あの、氷室の女性を何とかしよう。明日になって、再び魔王に邪魔される前に。
27 魔王の章
魔王の躰は剣を手にしたまま、突っ立っていた。切断された首は床の上に転がって、そこから、広がる血だまりを眺めている。
ミラナの躰から流れ出る血。
王子がかがみこんでミラナの傷を確かめ、止血しようとしているが、もはや、手の施しようがないのは魔王にもわかっていた。心臓には届いていないものの、背骨が砕け、神経と血管が切れている。
――邪魔な王子を片付けるだけのつもりだったのに、首が胴から離れていたせいで、微妙な制御がきかなかったのだ。いや、それよりもまず、だまされた怒りで頭が一杯になっていた。
ミラナは王子に機会を作るために、俺を受け入れるふりをしていただけなのだ。あんなに優しい顔をして。優しい指をして。笑顔の下で、俺を売る計算をしていた。俺が欲しいと思う女は、いつもこうだ。もしかして、もしかして、この女ならと思ったのに……
「何とかならないのか」
顔をゆがめた王子が振り向いて、首だけの魔王を責めた。
「何のための魔力だ、この出血を止められないのか!! このままミラナを死なせるつもりか!!」
仕方ないだろう。自分には、病人や怪我人を治すことはできないと、魔王はわきまえている。
これまで、そんな真似をしたことがないし、どうすればいいのかもわからない……精霊の女を氷漬けにしたのは、力ずくだった。他に、どうやったら黙らせる方法があるのか、わからなかったからだ。あの女は最後まで、助けが来るからと言い張っていた……俺がその助けとやらを、封印したことを知らないまま。
すると、王子が、首なしの胴体の胸倉をつかんできた。
「おまえにできることは、竜巻や火の川で人を脅かすことだけか!! そんなくだらないことにしか、力の使いようがないのか!! 何が魔王だ、下等な魔物ではないか!! 悔しかったら、ミラナを生き返らせてみろ!! それができるなら、喜んでおまえの前にひれ伏してやる!!」
こいつ、やはりパリュサティス姫と血がつながっていると、魔王の頭部は思った。普段は澄ましているくせに、偉そうに食ってかかる態度がそっくりだ。
「よかろう、そこまで言うなら、こいつを助けてやる。そうしたら、俺の前で這いつくばるんだな。楽しみだ」
この王子を始末することは、もはやどうでもよかった。殺すことは、生かすことに比べれば、はるかに簡単なのだ。しようと思えば、いつでもできる。
魔王の躰は剣を捨てて首を拾い、肩の上に乗せて、ぐいと切断面をくっつけた。彼の肉体は、普通の意味では生きていないから、それだけで元通りになる。
それから、うつ伏せで倒れているミラナの前に膝をついた。出血で死なないうちに、氷漬けにしたらどうだろう。そうすれば、いつか、目覚めさせる方法がわかるかもしれない……
その時、偉そうな女の声が響いた。
「あんたには無理よ。あたしに任せなさい」
岩壁にうがたれた窓から、何か輝かしいものが入ってきた。長い金褐色の髪と蜂蜜色の肌、宝玉のような青い瞳、きらびやかな衣装をまとった大柄な女――
普通の人間には持ちえない、強い〝気〟を放っているのに、この距離まで、俺が気づかなかったのはなぜだ、と魔王は考えた。あれだ。王子がはめている、奇妙な腕輪のせいだ。おかげで、周囲の〝気〟が乱れている。
あんな道具があるとは、知らなかった。そもそも、王子はまだ、絶壁の向こうにいると思っていたぞ。そうか、こいつが糸を引いていたのか。
「あたしをお忘れ?」
女は、よもや忘れているはずはない、という自信をこめて言う。
「名前はスメニア、あなたに瓶詰にされて、三百年、砂漠に埋もれていたのよ」
あいつなのか。もう、顔も名前もおぼろげになっていた。古い精霊の一族だと威張っていた女。仲間をさらわれ、怒って俺に挑んできたのはいいが、途中で逃げようとしたので、追いかけて、瓶の中に隠れていたのを見つけ、そのまま封印した……もっとも、どれほどの期間、封じられるかはわからなかったが。
あれ以後、新たな精霊に出会うことはなかった。だから、あの二人が最後の生き残りなのだろうと思っていた。さすがに、しぶとい。
「瓶から出られたのか。まだ干物になっていなかったとは、たいした執念だ」
魔王は冷ややかに言ったが、本当は、こうしてしゃべっている間も惜しかった。早く何とかしなければ、ミラナが本当に死んでしまう。貴重な血液と共に、生気がどんどん流れ出していく。
いや、こんな小娘一人、死んだからといって、どうということはないはずだ。何も自分が、うろたえる必要はない……ないのだが……
「王子に拾ってもらったのよ」
スメニアは腰に手を当て、威張って言う。
「だから、あたしは王子の味方をするの。あなたが王子に妹姫を返すなら、あたしもあなたを助けてあげる」
魔王は不快さに眉をひそめた。
俺を助ける、だと? 俺の半分も力がなかったくせに?
だが、きらびやかな女は自信ありげに言う。
「あなたは、その娘を死なせたくないんでしょ。王子と姫を解放してくれるなら、あたしが、ミラナを助ける方法を教えてあげるわよ」
偉そうな態度で言われると、魔王は思わず反発してしまう。
「ばかばかしい。この俺が、人間の小娘など、どうなろうと気にするものか。ただ、奴隷にして使おうと思っていただけだ……」
「そう。でも、このざまでは、こき使うのはもう無理ね。苦しませるのは気の毒だから、あたしが楽にしてあげるわ」
並の男よりたくましく見える魔女はそう言いながら、落ちていた長剣を拾い上げた。王子が使い、魔王が使ってミラナの血に染めた剣だ。
「どうせ死なせるなら、一思いに死なせるのが親切というものよ。あたしたちは人間より強いのだから、せめて、そのくらいの思いやりは持っていなくては」
そして、強い腕で剣を振り上げ、ミラナの頭上に勢いよく振り下ろす。少しのためらいもなく。
「――やめろ!!」
反射的に、魔王は空中で剣を叩き折っていた。鋭い音と共に剣が幾つもの破片に分かれ、あたりに飛び散り、ミラナの周囲の床にこぼれ落ちる。
破片の一つが、魔女の顔に一筋の傷をつけていた。魔女は不満げに眉をひそめて、魔王をにらむ。こういう場合、こちらから攻撃するしかないと魔王は思った。
「どうせ親切のつもりなら、助けてみせたらどうだ」
できるだけ挑発的に、魔王は言った。
「助ける方法を知っているんだろう。見ていてやるから、やってみろ。それとも、こんな深手ではやはり、歯が立たないか?」
魔女は顔の傷をぬぐい、唇の端をゆがめてみせた。
「あたしの力があなたに及ばないことは、あなたの方がよく知ってるでしょう。確かにこの傷では、ミラナを助けるのはもう無理よ。それよりも、あなたと同じ方法で甦らせる方が確実ね」
何だって……俺と同じ方法!?
とうの昔に止まったはずの心臓が、再び鼓動しそうなほど、魔王は驚いた。
それで、ミラナを助けられるというのか!? 俺と同じ、不死身の存在にできると!?
かすかな希望が湧いた。そうすればミラナも、人間の男には関心を失うかもしれない。同じ魔物として、俺と暮らしてくれるかもしれない。もし、そんなことが現実になるのなら……
「あなた、一度死んで、それから甦ったはずよ。自分の中に、何かおかしなものが入り込んだのを感じたはず。そいつらが、ぶつぶつ何か文句を言っているんじゃなくて?」
どうしてわかるのか、魔女は正確に指摘した。
「あなたに憑いたものは、さまよっていた悪霊の群れ。あなたの最後の怒りや恨みに呼応して、集まってきたの。あなたのその躰は、ただの依代に過ぎないのよ。だから、首を斬られてもまるで支障ない。ミラナもそうなればいいのよ。そうしたら、血液がなくなろうと、冷たい躰のままであろうと、意識を保てる。歳をとることもなく、永遠にこの姿でね」
精霊の一族は、悪霊をうまく使えるのかと、魔王は感嘆した。確かに人間のままでは、たとえ怪我が治っても、ミラナはあっという間に老いていく。それを止められるのか。ずっとこの姿で、俺の側に置いておけるのか。
「別に難しくはないわ。あなたに憑いているものを、一部、ミラナに分けてやればいいのよ。あなたの力は少し弱まるかもしれないけれど、それにしたって、無敵であることには変わりないでしょう」
「しかし、俺と一体化しているものを、どうやって、分離できるんだ」
魔女はミラナの血が流れる石の床の上で、皮肉な笑みを浮かべてみせる。
「確かに、あたしの力はあなたより弱いわ。ただし、使い方はあなたより心得ている。一族の中で、子供の頃から訓練されてきたのでね。偶然に誕生したあなたには、そういう伝統の知恵がない。あなたが協力してくれさえすれば、十分できると思うわよ」
「自信があるなら、やってみろ」
魔王はあざ笑った。胸に希望を抱いているなど、悟らせてなるものか。
「ちょうどいい退屈しのぎだ。そんな優男を殺す楽しみなど、ほんの一瞬で終わってしまうからな。それより、せっかく瓶から出てきたんだ。もう一度閉じ込める前に、珍しい芸でも見せてもらおうか」
こうしている間にも、ミラナの心臓の鼓動は弱まり、躰は冷たくなっていく。救う可能性がわずかでもあるなら、やらせてみて損はない。
それで駄目なら……どうせ、俺は最初から一人だったのだ。
『ペルシアン・ブルー22』に続く