『ペルシアン・ブルー15』
18 魔王の章
理解できない。
そのことが、不安を呼び起こす。
あの、赤毛の子猿のような、ちっぽけな娘が、なぜ、怖いのだ。自分は人間の軍隊でさえ、容易く蹴散らせるのに。
まともに取り合う必要はないはずだ、と魔王は幾度も自分に言い聞かせた。女が支配する世の中、などという戯言は。
だが、そわそわして落ち着かない。
もし……もしも、あの娘の言うことが当たっていたら?
自分がこうなったのは、あの娘に出会い、仕えるためだとしたら?
そんなはずはないと打ち消すそばから、理解できないものに出会った恐ろしさが、ひしひしと押し寄せる。
あの娘は、本気で世界を変えるつもりだ。そして、それは可能になるだろう。もしも自分が、あの娘に屈したら。
あの娘の命令に従い、あちこち飛び回って男たちの軍隊と戦えば、退屈する暇はなくなるだろう。自分はもう、何を悩むこともない。ただ、女神の意志に従うだけのこと。
魔王自身には、世界をどうこうしようなどという考えは、微塵もなかった。人間だった頃も、こうなってからも。
(だが、あの娘は計画を持っている。恐ろしい計画かもしれないが、今の世の中だって、残酷なことには変わりない……)
魔王は迷ったまま、砂漠の上を飛んだ。海に出ると、海を越えて飛ぶ。人間の町や村を見下ろし、森を越え、草原を越え、氷原を渡り、また海に出る。
自分には、相談する相手もいない。魔物だと知られれば、人間たちはこちらを恐れ、逃げようとする。どこの国、いつの時代でもそうだった。精霊の一族も、助けにはならなかった。竜の生き残りとも、友達にはなれなかった。
あの小娘だけだ。俺を捕まえて、ああしろこうしろと偉そうに言ってくるのは。
一種の狂人かもしれないが、もしかしたら……本当に、女神の息吹きを受けているのかもしれないだろう。
正しい神がいるから、悪神もいて、俺のような魔物も誕生するのではないか。
――いや、違う。
あの小娘は、頭が回るだけだ。王族に生まれ、最高の教育を受けられたからだ。
それにひきかえ、俺は、文字もろくに読めないままだ。何百年もの時間があっても、本気で学ぼうとはしなかった。だから、馬鹿のままなのだ。あの娘はそれを見抜いて、俺を利用しようとしている。
あまりにも、馬鹿げているではないか……不死身の俺が、たった十五年しか生きていない小娘に、頭を下げるなど。
19 ミラナの章
(姫さまが、また少し大人になられた……)
ミラナは、そう感じている。自分には相変わらずよくしてくれ、池で魚が跳ねたことにも、草むらから蛙が飛び出したことにも笑い声を立てるが、ふと気がつくと、パリュサティスは何かを一心に考え込んでいる。
ここから逃げる方策か。魔王を懐柔する方策か。それとも、故国に戻ってからの改革か。
かと思うと、ふっと姿が消え、あたりを探しても見当たらない。おそらく、こちらに内緒で何かをしているのだとミラナは思う。危険な作業か、新たな探検か。
食事時になると近くに戻っていて、当たり前のような顔で、料理や薪集めを手伝ってくれるので、あえて詮索はしないようにしていた。
(たぶん、わたしに心配をかけまいとなさっているのよ……)
他にも気掛かりがあった。地底で、氷の池に閉ざされた女性。あの白い姿を思い出すと、ミラナは胸が苦しくなる。どういう事情があって封じられているのか、知りたいのだが、知るのが怖い。
(あの人にとって、特別の意味を持つ女性だったら……)
そう思うだけで胸の中が乱れ、考えがまとまらなくなる。
(わたしがしっかりして、姫さまをお守りしないといけないのに……)
今日のパリュサティスは、庭園の花畑を前に、長いこと岩に座っている。赤い芥子ばかりでなくて、高山にしか生えないという、珍しい青い芥子も咲いていた。砂漠からの熱風も、岩山が作る日陰にいれば、いくらかはましである。
(あの人が採集してきたのかもしれない。世界を飛び歩いているらしいから……)
パリュサティスの邪魔をしないよう、ミラナはそっと離れて、枯れ枝を拾ったり、熟れた桃を探したり、玉葱や大蒜を掘り起こしたりして時間を過ごす。
先のことを考えなくていいのなら、ここは確かに楽園だった。岩間から湧き出す清水、豊かに実る果物、元気のよい野菜。砂漠と火の山に守られているから、盗賊の心配も、虎や狼の心配もない。
ことに、美しい泉から水を汲んで、衣類や日用の亜麻布を洗濯するのは、気持ちのよい過ごし方だった。
暑くなれば、頭から水をかぶる。濡れたまま、水辺の涼しい木陰にいると、風がとても心地よい。
もちろん、洗い物をする時は、清らかな小川や泉を汚さないよう、気をつけていた。不浄なごみを始末する時には、神聖な大地を汚さないよう、岩棚の上でよく乾燥させてから、畑の片隅に埋めておく。すると、それらはやがて虫に食われ、消えていく。
魔王がアフラ・マズダの教えを鼻で笑ったとしても、幼い頃からの習慣は変えられないし、変えようとも思わなかった。毎日、こうして身の回りのことをしていると、ここでの暮らしが当たり前のものになり、永遠に続くかのような気になってしまう。
でも、たぶん、いつかは終わる。
(姫さまは、いずれ、ここから出ていかれる。どんな方法でかは、わからないけれど)
この場所で一生を終わる方ではない、ということだけは、ミラナにはわかっている。本当ならば、『諸王の王』の横に立たれる方……それがダラヤワウシュさまでなく、アルタクシャスラさまであればよかったのに。
パリュサティスが天から使命を受けた存在であることは、とうの昔に確信していた。皇太子に望まれたのも、魔物に目をつけられたのも、アナーヒター女神の加護があるからではないか。
それだけでも、パリュサティスが魔王より格上なのは、確かだと思う。魔王がしているのは人を脅かすことだけで、何かを築こうとはしていないのだから。
だからといって、あの魔王を配下にして、好きに使役するなどということは、さすがにパリュサティスでも無理だろうと思うのだが……人の優越を素直に認められるようなら、そもそも、魔物ではいられないのではないか。
洗いあがったものを籠に入れて運ぼうとした時、ミラナははっとして立ち止まった。周囲に一陣の風が渦巻いて、黒衣の男性が現れたのだ。冷気をまとった、不機嫌そうな浅黒い顔。
いつも、いきなり現れる人だから、心の準備が間に合わない。何日ぶりだろう。食べ物や雑貨だけは日々、まめに届けられるけれど、姿を見せてくれることは滅多にない。
「毎日、けなげなことだな。あのわがまま姫に、よく尽くせるものだ」
冷ややかな言い方をされると、胸がつまって苦しい。平静な顔を保とうと努力しながら、ミラナは言った。
「姫さまは、強くてお優しい方ですわ。決して、わがままなどおっしゃいません」
ただ、高貴な育ちのせいで、遠慮というものを重視しないだけである。その代わり、並外れた勇気と探求心を持っている。子供の頃から、幾度、王宮を抜け出し、町や村を歩いてきたことか。
「貧しい子供たちと一緒に遊んで、本当の民の暮らしを知ろうとなさったり。村の娘に悪さをしたならず者たちを、馬で追って退治なさったり……」
けれど、魔王は見下した薄笑いをする。
「その忠義ぶりが、いつまで続くかな。褒賞目当てで砂漠に乗り出してきた連中も、大部分は死ぬか、引き返すかしているぞ。ペルシアの軍隊も、いつまで粘るか見物だな」
ミラナは籠を取り落とした。初めて聞いたことだ。軍隊が乗り出してきているとは。
「もしや、アルタクシャスラさまが!?」
人はしばしば(実兄のダラヤワウシュでさえ)、アルタクシャスラの優しげな外見に幻惑されるが、彼が実は、卓抜した戦闘指揮官であることをミラナは知っている。そうでなければ、長く視察の旅は続けられない。しかも、刺客に狙われながら。
すると、魔王は不快そうに顔をこわばらせた。
「おおかた、本国にいて兄に暗殺されるより、砂漠に出た方がましだと考えたんだろう。親衛隊を引き連れて、ここを目指している」
(ああ、アナーヒター女神さま……ありがとうございます)
もはや魔王の不機嫌も気にならず、ミラナは目を閉じて、心の底から感謝した。
(アルタクシャスラさまは、やはり、姫さまのことを愛してくださっているのだわ。すぐにでも、このこと、姫さまにお知らせしなければ。お二人が、たとえ、この世で夫婦としては結ばれないとしても……再会できさえしたら……)
その時、ぐいと手首を引かれて、ミラナは目を開けた。浅黒い顔がすぐ間近にあり、黒い目がこちらを睨みつけている。
「ぬか喜びはしない方がいいぞ。砂嵐に襲われたら、人間どもの部隊など、ひとたまりもないからな」
ミラナは改めて、現実の困難を思い起こした。たとえ大砂漠を越えられたとしても、まだ火の川がある。絶壁の連なりがある。そして、魔力を持つこの人がいる。
「お願いです」
深い考えもなく、その場に膝をつき、魔王にすがるようにして訴えた。
「姫さまとアルタクシャスラさまだけは、どうか助けて差し上げて下さい。親衛隊の兵たちも、パルサ本土に帰れるようにして下さい。その代わり、わたしはここで、あなたの侍女になります。一生、あなたのために働きます。ですから、姫さまたちはどうか……」
その途端、長身の男は怒りの表情でミラナを突き飛ばした。ミラナは水辺の岩場に倒れ、したたか手足を打ちつけてしまう。
「しおらしそうなことを言うな、この売女!! 俺に取り入って、うまく立ち回るつもりなんだろうが、そうはいくか!!」
たちまち風を起こして消えた魔王の姿を、ミラナは水辺に倒れたままで見送った。
(売女……?)
痛い思いをしたのは自分だが、悲鳴をあげたのは彼だという気がする。売女というのは、女が思い通りにならない時の、男の悲鳴のようなものではないか。
彼も苦しいのだ、と感じた。苦しまぎれに女をさらい、男たちをひきずり回して憂さ晴らしをしている。そんなことではおそらく、本当には楽になれないのだろうに。
でも、どうすれば彼に、こちらの言葉が通じるのか。
嘘を言ったつもりではないのだ。あの人がそうさせてくれるなら、わたしは彼に仕えて平穏に暮らせると、ミラナは思う。
(もちろん、姫さまが恋しくなるのは間違いないけれど、それでも、姫さまがアルタクシャスラさまの元でお幸せなら……)
やがて、摘んだ花を持ち、鼻歌を歌いながら岩山を回ってきたパリュサティスが、うずくまっているミラナを見つけ、慌てて駆け寄ってきた。
「ミラナ、どうしたの、転んだの? どこか怪我をした?」
「いいえ、姫さま。それより、わたし、いま……」
アルタクシャスラのことを伝えようとして、ミラナはためらった。あの人は本当に、自分の城に近づく者を、誰一人として生かしてはおかないかもしれない。それを知ったら姫さまの方こそ、あの人を殺そうと考えだすのではないか……
けれど、魔力を持つ相手に対して、正面から何ができるだろう。下手にあの人を怒らせたら、姫さまが殺される。
「何でもありません。うっかりして、つまづいてしまって……」
ミラナがぎこちなく言うことを、パリュサティスも、少しはおかしいと思ったかもしれない。しかし、侍女を問い詰めたりはせず、優しく言った。
「ミラナは働きすぎなのよ。日陰に入ってなさい。洗濯物は、あたしが干すからね」
そして、機嫌よく布を岩の上に広げ、小石を幾つか乗せて、風で飛ばないようにする。
「熟れた瓜もあるのよ。池で冷やしてあるから、あとで食べようね」
この方のためならば、自分は生涯を捧げて、悔いのないはずだったとミラナは思う。いつかパリュサティスが子供を産んだら、その子の世話も喜んでするつもりだった。自分は独身でいい。男性に添いたいと思ったことはない。
(それなのに、ここに残ってあの人の侍女になるなんて、よくも口から出てきたもの……わたし、どうかしている)
だが、どうかしているのは、アラビアの海岸で、焚火をはさんで魔王と向き合った時からだろう。彼を恐ろしいと思う反面、姿を見たい、語りかけてほしいと願う気持ちが常にある。
(あの人は、人間の女のことなど、ただの退屈しのぎとしか考えていないのに。遠い昔に、どこかで会ったことがあるなんて、夢か錯覚にすぎないのに……)
『ペルシアン・ブルー16』に続く