野良犬の思索日記(2024/12/01)
「読まれたい欲望」
この日記はこの日記そのものが、「読まれたい欲望」と「読まれなくていい」という虚勢との緊張感を表現している。
「思索は閉じたもの」
そもそも「思索」は閉じたもので、「開かれたもの」ではない。
だからそもそも「閉じたもの」を閉じたまま「公開」すればそれは読まれるはずもないのである。
「名前の重要性」
私が憧れを持っているアーレントの『思索日記』にしても「アーレント」という偉大な哲学者だからこそ、その思索が「開かれたもの」になっている。
つまり「名前」が重要なのだが、それは「アーレント」の名前が「有名」だからである。
「思索はそもそも「従」であり「主」ではない」
「思索」は作品を生み出す「従」としての役割を本来持っている。
だからこそアーレントの日記は、アーレントの様々な書籍を生み出す役割を果たしていたのと同時に、それはアーレントの書籍を解釈、理解するためのもの。
だから、「思索」は「作品」の「従」であることを運命づけられている。