自分を受け入れる旅:男の子とMの子の堂々巡り(往復書簡)その13
自分自身の中にいる男の子へ
梅雨なのに夏のような暑さで困る日々を過ごしているよ。
君も同じかな。
君が手紙の最後に吐露していた思いは、僕にはとても響いたよ。
男の子であることは君とっては「社会から要請される男の子らしさ」であって、それは君自身が心から望んだものじゃないということだね。
そして、そういう男の子らしさ以外の像が君にはなくて、だから君は自分が存在しないように感じてるということだね。
君の告白を読んで、僕が思ったことは、君と僕は逆だってことだ。
僕は僕の存在が強すぎるから、自分がしかいない気がする。
僕には他者がいない。
自分しかいないんだ。
君が社会を気にしすぎて、君自身がわからなくなっているなら、僕は僕自身が強すぎて他者が見えなくなってる。
だから、君の言うところの恋愛市場のあり方にも、自分を合わせようとしていない。
今、思ったんだけど、僕らのこの正反対の性質が、恋愛や性愛で上手くいかない原因な気がするな。
この隘路をどのように抜ければいいんだろうね。
自分が存在しない。
他人が存在しない。
恋愛や性愛で自分が存在しないことは、市場に乗っているようで、実は全く乗ってないことを意味するんじゃないかな。
市場に合わせようとして、市場に埋没してしまう。
逆に恋愛や性愛で他人が存在しないことは、それはただの独りよがりで、どこからも拾われなってしまう。
だからこのバランスが重要な気がするんだ。
うーん。やっぱりちょっと違うかな。
ずーっと僕らはこのテーマで話をしてきたけど、そこには頭の中でこねくり回しているだけで、どこか身体性がないんだよね。
頭の中だけで話をしている。
でも、君は感じるカラダを憎んでいると言ったから、身体性について話をするのは嫌かもしれないけど、それをしないことには先には進めないと思うんだよね。
市場がどうとか、ニーズがどうとかそういう資本主義的な視点からしか恋愛と性愛について話せていない気がする。
君はそういう資本主義的なあり方に肯定的で、僕はそれに否定的で、そこで立ちすくんでる。
だからこの往復書簡、この自己受容の旅を一旦休もう。
僕らは旅をし続けて疲れてしまっている。
これは僕からの提案だ。
君からの返信を待ってるよ。