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自分を受け入れる旅:男の子✖️Mの子にとって性愛はなぜ難しいか?(往復書簡)その12


私の内に宿るMの子へ

梅雨なのに、梅雨らしくない気候が続いている気がします。
貴方はどうお過ごしでしょうか?

さて、さっそく貴方の問いに答えましょう。
「社会の求める男の子になぜなろうするのか?」
貴方が出した問いはこれでしたね。

私はこれまでの書簡でも繰り返し述べてきましたが、「社会が求める像」にならないと、得たいものを得られないからです。

それは恋愛にせよ、性愛にせよ同じことです。
世の中は需要と供給で回ってます。
男の子でMの子は、需要がないのです。
もっと厳しく言えば、市場価値がないということです。

それはこの往復書簡の中で何度も言及していることですね。
この問いに対しては、これくらいにしておきましょう。

貴方はもう一つ、重要な問いを出してる。
それについて答えないといけないですね。
「感じる身体を無視して、感じさせる役割を演じられるか?」

演じるべきだと思いますね。
そのためには、相手に身体を触らせなければいいと思います。
ただ、自分で言っておいてなんですが、それは難しいと思いますね。

身体に触れられれば、感じる身体は、素直に官能してしまう。
だからこそ貴方にとって、悦びである感じる身体は、私にとっては憎むべき存在になってしまう。
なぜなら、感じる身体は私を男の子にしないからです。

男の子は感じてはいけない。
これが社会の要請なのです。
それに叛逆する身体は、私にとって憎むべき対象なのです。

しかし、貴方の言うように身体をどれだけ無視しようと、身体は私を追いかけていき、私を呑み込んでしまいます。
そして、私は後景になってしまい、貴方が前面に出てきてしまいますね。

ここまで書いて、私は素直に混乱していることを打ち明けましょう。
私は男の子であることに拘っています。
ここでいう男の子というのは、もちろん「社会が求める男の子」のことです。

しかし、拘れば拘るほど、貴方の存在を認めたくない私がいることに気づくのです。
そして、その頑固さこそ、まさに「男の子」らしさであると思えるのです。

私が執拗に社会の求める男の子らしさに、擬態することを主張すればするほど、社会以上に自分自身がそこに固執していることに気づくのです。

私は結局のところ、私がいないのかもしれない。
そんなふうに思うのです。


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