野良犬の思索日記(2024/11/24)

ここ最近、「読解とは何か?」ということを考えている。
このことを考えるきっかけを作った本があったが、その本については今は語らないでおく。

さて、「読解とは何か?」ということについて考えたいのだが、この問いを考えると「正しい読解はあるのか?」という問いが真っ先に浮かぶ。

これは本当のところないと言いたいが、社会は「正しい読解」を前提としないと成り立たないという答えになるだろう。

例えば、テストが存在するのは、そこには「正しい読解」という前提があるからこそであり、この前提が崩れれば、テストの存在が危うくなる。

各々が自由に読んでいいのであれば、そこから導き出される答えには正誤がなくなる。一つの正しい答えを置くことによって、テストは成り立っている。

「正しい読解」はある前提になっている。
社会システムを支えるためには、「正しい読解」が前提になっていることは必要だろう。
しかし、自由に読解していいものでも、「正しい読解」があるように思えるのはなぜだろうか?

例えば、読解のメインターゲットである本など。
「誤読」という言葉がある。
それはまさに自由に読んでいいはずの読書という行為に、「誤読」という言葉があてがわれる。
なぜ私たちは「正しい読解」に囚われるのだろうか?

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