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二元論を理解したその先は?
2つで1つを理解した先は、循環になると思います。
今まで、A ⇔ B の2つで行き来していたものが、A = B と C = D へ視野が広がるわけです。
そうなると、A = B と C = Dの間に立って、AからB、BからAと矢印が回っていって、C = D も同じように矢印が回ると無限大♾️のマークが描けますね。
結論としては「積んだ徳は回り回って返ってくる」です。
どうやって循環していくのか?
ワークショップでは、見返りを求めないと思いもよらないところから返ってくると言っていました。
例えば、募金箱へ募金をしても募金箱から直接お礼がもらえるわけじゃないですよね。
募金をした後日、家族に臨時収入があってお裾分けをもらったとか、現金じゃなくて食べ物をもらったとかでラッキーが回ってくることが「循環」です。
良いことをした対象そのものからではなく、回り回って別な対象から届くことですね。
見返りを求めない、というのは仕事とかだと難しいところではあります。
(良いように使われたり、ナメられたり、いつの間にか担当押し付けられたり……)
通りすがりの困っている人を助けた経験は誰しもあると思いますが、その時に「見返り欲しい!」なんて思わないですよね?
むしろ数日で忘れます。
そういうレベルの「見返りを求めない」から始めていくと循環しはじめるのかなと思います。
他人 ⇔ 自分の一方向の矢印(搾取)ではなく、他人から自分、自分から別の他人と回すことを意識すると良いのかな。
回すって何を? って感じですが、思いやりとか親切とか気づかいとか、お金とかもだし、悪意もですね。
要は自分や他人から受け取るエネルギーやモノです。
受け取ったものをそのまま回しても良いし、良いものに変換して回しても良いし、それは自由です。
普段まったく意識していないですが、振り返ると私は食べ物関連の循環が多いかな?
「他」に寄っていると循環は難しい
意思決定権を「他人」に置くと、他人に決定されたことを行う人形になります。それは思考停止して従うだけなのでとっても楽です。
失敗しても決定した「誰か」のせいで自分に責任はないし。
それだと「他人」に寄っていて「自分」がないですね。
他人がAと言ったからAになり、Bと言ったらBになり、と振り回されて、無駄に悩んだりするだけです。
「他人」がいるから「自分」がいて、初めて理解が出来るんです。
スピリチュアルも同じです。
スピリチュアルといっても、現在の肉体が生きているのは地球で、私たちは現実にいるわけですから、天に引っ張られて地に足をつけていないとバランスが崩れますよね。
軸を他人ではなく自分に戻さないと中庸にならないし、他人と自分の両方を観ることができません。
一方通行の矢印(搾取や共依存?)に執着するとさりげなく回ってきたラッキーを見逃すことになります。
せっかく募金したのに何で募金箱からお礼がもらえないの!?
という考えです。「◯◯してあげたのに」というやつですね。
頼んでいない親切ほど迷惑なものはないですし、「◯◯してあげたのに」の続きってだいたい見返りを求めていませんか。
まあ、見返りを自分から求めて返ってきたらそれも良いといえば良いんですが、ちょっともったいないなと思います。
とはいえ、意識しすぎないこと
自分が出したエネルギーが良くも悪くも巡り巡って返ってくると思うと、徳は積んでおいて損はないですね。
ただ、良いことをしたからといってすぐ返ってくるものでもないので、「へえ〜」くらいで循環を過剰に意識しすぎないことも大事だと思います。
チロルチョコをお裾分けしてもらったら、「これはあの日、道を聞かれたときに答えた分かな?」と思わない。ということです。
そもそも親切にした分ひとつひとつに対してではなく、複合系で返ってくるかもしれませんし。
直接アメとかチョコとかのお礼をもらったりすることもありますからね。
出来る範囲で徳を積んでラッキーを楽しんでいきましょう。