片付けに取り組むこと
昔、大学を奨学金と昼間にバイトをして卒業した。
いわゆる夜間大学だ。
18時から21時まで講義を受け、その後部活とか交流会をして、深夜に帰宅。
始発で市街地まで出て、8時半から16時までバイト。
大学へ行き、学食を食べて講義に参加する。
4年間そんな生活をし、卒業したら今度は奨学金を返すためにひたすらに働いた。
大学卒業少し前に結婚もしたのだが、高校卒業の19歳から借金を抱えて定年を目の前に控えても、まだ借金を抱えている。そして貧乏学生だった頃とあまり変わらない生活をしている。旅行にも行けないし、ゆとりがある暮らしを経験したことがない。いつも足りない騒ぎをしている。
そんな自分の生き方を変えたくて、もがきまくった。
もがいてもがいて、色々勉強をしたり、自分に投資もした。
でも借金が膨れただけだった。
もがいている間、家の中は荒れた。
ある境界線を超えたとき(それがいつかは覚えていないが)、雪だるま式に家の中のモノが溢れて足の踏み場がなくなった。
職場に、上司に、社会に文句を言いたいだけ言って、いつも溜め息をつきながらイライラしていた。怒りと悲しみと寂しさが胸の中で渦巻いていて、大事な家族がいるのに、自分が消えてしまったらいいのに、ここから逃げ出したい、といつも思っていた。
そんな私が、今少しずつだけど変わろうとしている。
変わっていけそうだと思っている。
頑張っている自分を褒めてあげたい、と思っている。
そうやって思えるようになったのは家を片付けることと向き合ったからだと思う。
まぁ、家を片付けようと思うまでにも、何年もかかったし、色々あったのだが(笑)。
片付けというのは不思議だ。
宮増侑嬉先生(思考の学校長。以前は大石洋子と名乗っておられていた)がおっしゃるには、目の前に現れている全ては自分の無意識から出ているものであり、自分の意識に無いものは目の前に現れてこないのだそうだ。
とすると、現在このゴミと必要なものが渾然一体となって、うず高く積み上がっている我が家は、私の思考そのものであると言える。
モノを通じて自分と向き合い、自分の無意識すらも整理する。
断捨離のやましたひでこ先生もそんなことをおっしゃっていたが、その意味が片付けを曲がりなりにも始めて、うだうだ言いながら少しだけ向き合って、行動して、「知っていた」から「ちょっと理解した」に昇格した。片付けが終わった時に「できるようになった」という状態になるのだろう。
それにしてもしんどい。
しんどいと続かないので、しんどいと思ったら止めるようにと、今片付けの先生である伊藤かすみ先生からは言われている。
あくまでも楽しく行うものなのだ。
実際、片付いた時の達成感は半端ない。
私としては、仕事で大きなプロジェクトを企画して成功させた時より大きいと思う。この喜びは自分だけのものだ、という自分に返ってくる感動の大きさがものすごい。
今は自分のものだけひたすらに分別、整理を行っている。
そのうち、家族とも話し合って、家族のモノにも手をつけていかなければならない。家族も協力的なので、私が家族をコントロールしようとさえしなければ、上手くいくと思う。
しんどい、と思うのは時間がないわけじゃないのに、片付けに取り掛かるまでに時間がかかること。
自分を責める癖がついてているので、些細なことですぐに落ち込みたくなること。
変わったつもりになっていても、過去の集大成の結果である「今」がすぐに変わるはずもないこと。
「今」をずっと意識するのはまだ私には難しい。
思考はすぐに未来に飛んで不安を煽り、過去に飛んで後悔を呼んでくる。
それでも私には「今」しかないし、「今」感じていることを大事にすることが、最速で幸せになることであると知っている。知ったことを理解している最中なので、苦しいのは仕方がないか、と思う。
そして、本気で「今」に集中していたら、過去にも未来にも思考は飛んでいなかい。行くことが出来ない。それは何度か体験している。
とにかくゆっくり、丁寧に。
未来のことを考えて焦らない。
今だけを見る。体感する。語感を働かせる。
そこは太極拳をやっていて良かったと思う。
歩くことも結構いい。
歩く時もただ漠然と歩かない。
腰を地面と平行に移動させるように、踵から足を地面につかないように、百会を会陰をまっすぐに立てるように、色々意識しながら歩く。
ついでにネドじゅんさんのエレベーターの呼吸もしたりして(笑)。
片付けきるぞ!と決意して始めたわけだが、決意したらすぐに出来るのならとっくに片付いた生活をしているはずだが、今までも片付かなかったのだから、劇的に進んでいなくても焦る必要も、落ち込む必要もない。
私は私のペースでちゃんと片付けが進んでいるよ。
とまずは自分を褒める。
またやってみようね。
片付けられるよ、私なら大丈夫。