僕が頻繁に行っている「哲学カフェ」というものについて

僕は大学院2年の夏に「哲学カフェ」というものを初めて知りました。
この時に行った所のこの時の回が楽しすぎて脳汁ダラダラでした。
そのお陰で、未だに僕は通い続けています。

そもそも何をしてる場所なの?


極限まで簡単に言うと、話してるだけです。
え?じゃあ、ただ知り合いと会って話すのと変わらないんじゃ?
その通りです。
普段の会話が既に哲学対話っぽくなってる人、沢山いると思います。
それから、哲学カフェという名前を謳っていても、やり方や雰囲気は全然違います。
開催場所、進行役、参加者などによって。
対話中はこういうことを意識しましょう、といったグランドルールのようなものがそれぞれあったりもします。

何故好きなの?

とは言いつつ、僕が感じるなんとなくの共通点があります。
それは、人間らしさが溢れている所。
利害関係も無く、話した所で社会的、経済的な得には全くなりません。
だからこそ、本当に思ってて、つい言葉が溢れ出てしまうんだろうな、と感じます。
ああ、人間らしくて尊い。
まとまってなくてもいい。
途中でコロコロ発言が変わってもいい。
他人と考えが違うならむしろ面白い。
収拾がつかなくなってもいい。
その方が、植物のように自然のままの形をしていて信用できる。

そんなんで回として成り立つんですか?

成り立ちます、大抵は。
勿論、時には雰囲気が悪いこともあります。
傷ついてしまっている人も、実はいるのかもしれません。
こればっかりは、人と人との関わりですからね。
でも、人なんて基本的に優しいですから、放っておいてもポジティブな気遣いが働いて、結果的に居心地の良い空間が、出来上がるものです。
経験的にそう思います、そう信じています。

哲学って言葉のせいでハードルが…


そうですよね。
本当にそうですよね。
どうしてこんなことになっているのでしょうか。

ちなみに僕は大学は理系で、高校でも倫理の授業は選択していませんでした。

何故僕が哲学カフェの場に飛び込めたか。
それは、初めて行った所がイベント名に「哲学」という言葉を入れていなかったことと、HPの告知で「何の専門知識も要りません」と記載があったことが大きかった気がします。

ところで、哲学者の永井玲衣さんという方の「水中の哲学者たち」という本があるんですけど、僕も読みましたが、この本が好き、という人に本当によく出会います。
哲学科出身や哲学カフェ界隈でない知人からも、この本の名前を聞きました。
永井さんも、いわゆる「ガチな」哲学よりは、哲学対話を非常に大切にされており、
この本が哲学対話の知名度を広げてくれている印象があります。
エッセイとして楽しく読めつつ、導入としてお勧めできる本かもしれません。

分かります!哲学カフェ最高ですよね!

はい。ただ…
哲学カフェにハマりすぎない方がいいな、とも思うんです。
頻度の問題というよりは、精神的な依存度の問題。
誇張抜きに、哲学カフェが人のライフラインとなり、人の生命力を支えている側面があるようです。
それはとても素晴らしいことだと思います。

けど、哲学的思考というものはメインの人生があってこそです。
専門家は例外として、哲学だけで生活を埋め尽くしてしまったら、哲学を、世界を観察するための「レンズ」ではなく「観察対象」そのものにして、その度合いを100%にしてしまったら、視野は広がらないと思うんです。
人生を面白くしたいからこそ、哲学対話の場は休憩所のようなものと僕は捉えたいです。

あとは、そもそも依存先は分散されていた方が健全で安全な状態だと思うから、ですね。

人によって付き合い方は様々だと思いますが、僕の場合、依存に気をつけるためにある程度の距離を取りながら。
でも、多分一生通い続けるんだろうなと予感もしています。

初めて哲学カフェに足を運んだ時、僕はこう思いました。
「ああ、自分がやってたことって哲学だったんだ…。」

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