中年になり、いよいよ自分が何者でもないと気付いた話
思うところがあり、従来からの自身の興味・関心である異文化体験について、その履歴を整理してみる。
学生時代 1990年代
沢木幸太郎の深夜特急、大沢たかおの同タイトルのテレビ番組、電波少年のユーラシア大陸横断などをみて、アジアへのぼんやりとした憧れを抱く
また高校時代の図書館で手に取ったJICAの「国際協力」という冊子を読み海外で、アジアで何か役に立ちたいという思いを抱く
浪人時代、新宿新南口の紀伊国屋で東南アジア、旅行関係の書籍を読み漁る(ほとんど立ち読みだったが)、また同時期同じく新宿のHMVのアジア楽曲コーナーでフェイ・ウォンの音楽にも出会う
学生時代 2000年代
国際交流サークルにて韓国、中国、台湾、インドネシア、在米華人等各国からの留学生と交流する
台湾留学生に誘われ台湾地震の募金活動に参加したお礼だからと台北、台中を案内してもらう。募金した/集めた金額以上の厚いもてなしを受ける。この際にふと騎楼の軒下部分を歩く感覚に魅力を感じるようになる
シンガポールから香港まで3週間かけ陸路で各国を巡る、各国では必ずチャイナタウンを訪れ、第二外国語の中国語を少しだけ使い、だんだん中国語のコミュニケーションに面白さを感じるようになる
北京に留学していたインドネシア人の先輩に会いに行き、また北京から西安、鄭州、蘇州、上海、厦門、香港を陸路で3週間旅行、このとき旅行人ガイド「客家円楼」を持って永定の土楼を訪れ宿泊、客家文化に出会う
大学でタイ語の授業を履修し、またタイ チェンマイのエイズ孤児院で1か月ボランティアをする、タイの貧困や巨大な性産業の影の側面を知る
中国吉林省に1年間留学、1年でHSK8級(得点9割)取得、また一年間中国語の先生につきひたすら中国語の発音とリズムを訓練する
留学中に内モンゴル、寧夏回族自治区、甘粛省、四川省、雲南省へ陸路で3週間旅行、このとき甘粛省の夏河でチベット族の僧侶の家に厚意で宿泊させてもらう
留学中、電気給湯器の交換に来た電器屋さんのおじさんと懇意になり、おじさんの奥さんの妹夫婦のジムに通わせてもらったり、親戚の家で中国新年を迎えさせてもらう(20年経った今でもたまにやり取りしている)
留学中、日本語教師のアルバイトをする。吉林省だったため朝鮮族の生徒が多く、年齢は様々で、皆とても素直で日本語を使えるようになりたいと目がキラキラしていた(ちなみに学校はオーナーが学費持ち逃げしたかで授業に行ったある日突然閉鎖)
中国で大量に購入した中国語ドラマ(還珠格格、情深深雨蒙蒙など)、映画(王家衛、張芸謀、葛優など)のVCD/DVDを観たり、同じく中国で大量に購入した音楽CD(フェイ・ウォン、鄧麗君など)を聴く日々
帰国後シンガポール料理店でアルバイト、シンガポール料理とその背景となる民族の多様性について興味を持つ。熱い創業オーナーの薫陶を受ける
大学で韓国語の授業を履修し、韓国にも3週間留学する
社会人 2000年代
中国工場を担当し、日々現地とやりとり、何度か出張もする
このあたりからチャイナタウン、華人関係の本を読み漁るようになる
シンガポールに一週間旅行し、語学学校と料理クラスに通い、またアルバイトしていたシンガポール料理店オーナーおすすめのお店を巡る
新大久保で様々な事情で学校の授業についていけない外国人の子どもと一緒に宿題をやったり、運動会の引率をしたりするボランティアに参加する
YouTubeでみつけた1980-1990年代の中国語の歌にハマる(陳淑華、張清芳、李宗盛など)
中国語のTECCでは902点だったが、英語からは逃げていたため初めて受けたTOEICは300点台であり、転職を考え英語の勉強をするようになる。ここで初めて中国語のアクセントのルールが英語にも当てはまることを知る
社会人 2010年代
転職し、タイ工場のコストダウンプロジェクトを担当、学生時代に覚えたタイ語が現場で喜ばれ昼時になるとお菓子を分けてもらえるようになる
中華圏に縁のある日本人、在東京の香港人、台湾人、中国人、シンガポール華人、マレーシア華人などのやんわりとしたコミュニティに属し、食事したりカラオケに行ったりとともに時間を過ごす
シンガポールに拠点を移し英語の環境の中で働くようになる
仕事では、シンガポールから東南アジア各国(タイ、マレーシア、インドネシア、ベトナム)に度々出張する。インド拠点のメンバーともよく仕事をするようになる
ふとマジョリカタイルを購入したくなり、当時工業団地に入居していたPeranakan Tiles Galleryの会社を探し出し訪問する(そこからGalleryのオーナーとはたまに連絡をとるようになる)
ツイッターで南洋華人への思いを語るようになる
シンガポールの福建会館で福建語を学ぶ。中国福建省のテレビ局がシンガポールの福建文化の取材に来た際日本人という珍しさからか福建語を学ぶ学生の代表として取材されアモイローカルのテレビニュースで放映される
同じく福建語を学んでいた関係で、福建会館系列の小学校に子どもを通わせたい保護者向けの説明会で中国語教育の重要性のパネルディスカッションにパネリストとして参加、中国語で中国語学習・活用の体験談を語る
中国南部、泉州、潮州、梅州でシンガポールの食文化との共通点を探したり、南洋にみられる騎楼があることを知ったり、それぞれの周辺の村を訪問し農村の豪邸をみたり、農村の廟に東南アジア各国から帰国した華僑の貢献や東南アジアからの寄進があることなどを確認したりする
社会人 2020年代
シンガポールで転職、タイ、マレーシア、インドネシア、ベトナム、フィリピン、インド、オーストラリア、中国、日本のメンバーとプロジェクトを実施する。ここでもインド拠点のメンバーと密にやりとりする
シンガポールで大学院に通い、グループワークをきっかけに20歳近く年下の中国人同級生とよく話すようになる
これを書き記したのは、ふと昔から脈々と自分の中に流れる熱いものが突然再びこみあげてきたからで、これらの伏線をどう回収していったらいいのか、自分は本当は何がしたいのか、その答えがないことがフラストレーションになっているのだと思う。振り返ると学生時代はいろいろやっていたなとか、転職して忙しくなったなとか、シンガポールにきて最初はいろいろ動けていたけど子どもができてあまり時間が取れなくなったなとか。最近も大学院にも通っているしなかなか忙しいなとか。仕事では常に数年先のプランを思い描きながら打算的にもやってきたけれど、この文脈においては果たしてどうか、仕事よりもむしろ個人的な興味・関心の方が大事だったのではないか、なのに何が本当にやりたいと聞かれて答えられるのか、何か一番印象に残っているのか、何が自分ならではのこだわりなのか、自信を持って何が言えるのか何を言いたいのか。いろいろかじっては何も達成していない、何者でもないただ歳をとってゆく自分に気づき焦っているのでないか。
そしてこれらを自ら眺めながら思うのは、今まで出会った書籍なり、人なりが確実に自分に影響を与えてきたこと。結果自分は、異文化を見聞きしそこに何か自分なりの意味を見出し同じように自分なりの言葉で伝えること、また異文化のなかで人の役にたつこと、に喜びを感じること。どのような自分なりの意味を見出し、どのように役立ち、どう家族と仕事とバランスをとっていくのかはこれから考えなくてはならない。仕事面では定期的に職務経歴書を見直しながら何がやりたいかを考えてきたけど、それ以外の興味・関心についてもたまには振り返ってみて改めて何がしたかったのか考えるのもよいのかもと今回バーッと書き出してみて思った。いよいよ中年ではあるが、自分が何者であったのかもう少し考えあがきたいと思う。
多分、皆それぞれそれぞれ本や人との出会いはあり、興味・関心事もあり、そこに仕事が加わり、さらに家族が加わり、だんだんともともとの情熱のようなものを忘れていく、それが薄まっていくなかでふと自分は本当は何がしたいのだろうかと時に強く思うことは、自身の場合それが異文化体験であっただけで、対象が違えど誰しもあることなのかなと思う。