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選び直しの部屋
私は待っている。
いつものように、静かに。
人々は迷い込んでくる。
コーヒーにするか紅茶にするか。メールの一文字を変えるか残すか。
そんな些細なことに、心を削られている人たち。
私の中の時計は、時々5分だけ逆らう。
人の心に合わせるように、不規則に、でも確実に。
先週は若い会社員が来た。企画書の一行を書き直すためだけに、何度も何度も5分前に戻った。結局、最初の文章に戻って出て行った。
彼は少し微笑んでいた。
その前のときは女子高生。親友との口喧嘩の後、一言だけ言い直したくて立ち寄った。でも時計が戻っても、結局何も言えなかった。
それでも、彼女は泣きながら「ありがとう」と言って去った。
言葉にできない後悔。それは誰もが抱える重荷。
私は誰も呼ばない。
*
私の中では、時が重なる。
言葉にできない想いは、時を巻き戻しても、簡単には形にならない。
人の記憶は不思議だ。
先日、若い男性が入ってきた。彼は婚約者との会話をやり直したかった。 「もう一度だけ」と、彼は呟いた。
時計が戻る。5分前に。
彼は言葉を選び直す。
でも、婚約者の方は毎回少しずつ困惑の色を深めていく。
同じ会話を、知らないうちに何度も繰り返された彼女の中で、違和感だけが少しずつ積み重なる。
「なんだか変な気分」と、彼女は首を傾げた。「何度も同じこと聞かれてる気がする」
選び直しを望まない人の記憶は、靄のように曖昧だ。でも、その靄の中にも何かは残る。不安や違和感。あるいは、ほんの小さな既視感。
時には、誰かの選び直しに付き合わされることで、心が疲れてしまう人もいる。 知らないうちに、何度も同じ時間を生きることを強いられて。
だから私は時々、時計を戻すのをためらう。全ての選び直しが、幸せを運ぶわけではないことを知っているから。
私は静かに、また新しい訪問者を待つ。
この部屋で人は気づく。
選び直せることと、選び直すべきことは、 必ずしも同じではないということに。
先週は、二人の会社員が来た。 新規案件の商談の途中。一人が言葉を選び直すたび、もう一人は微かな違和感を覚える。 けれど、その選び直しが功を奏した。より良い条件で、より大きな仕事を受注できた。
「なんだか今日は調子がいいね」 そう言って、違和感を覚えていた方が笑う。 選び直した方は、少し申し訳なさそうにうなづいた。
私は知っている。
選び直しは、時に幸せを運び、時に後悔を残す。
けれど、最初の選択には、いつも真実が宿る。
その人の本当の気持ちが、そこにはある。
私は知っている。
選択とは、単なる分岐点ではない。
それは、自分自身との対話であり、
未知への挑戦であり、
時間との交渉なのだと。
選び直すたびに、人は少しずつ自分を知る。
失敗も成功も、すべては自分を理解するための旅。
この部屋は、その旅の、ちょっとした通過点に過ぎない。
そして、今日も私は待っている。
選べない誰かのために。迷い込んだ誰かのために。
あなたの、その時間は、何度目ですか。
月白堂
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