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「良い作品とは何か?」

ある人の作品を読んでいて、「良い作品とは、なんだろう?」という疑問が浮かんだ。

良い作品とは、一体、なんだろう?

売れる作品が、良い作品なのだろうか?
分かりやすい作品が、良い作品なのだろうか?

ある人が言っていたように、「誰かに届いて初めて、作品は完成する」という部分は確かにある。
では、届かなかった作品は、完成していないのだろうか?

ゴッホの絵は、彼が生きている間は1枚しか売れなかった。

これは、彼が生きている間は、彼の絵は完成されていなかった、ということだろうか?
そうではないと思う。
しかし確かに、誰かに見られなかったら、その絵を見たことがない人にとって、その絵は存在していない事になる。

ここでまずクリアにしなくてはならないのは、「売れる」ということと、「届く」ということは同じではないということ。
例えば本で言うと、図書館で読む人達もいるだろう。 その場合、その本は図書館で読まれた人数分は売れてはいない。しかし、読み手に届いている。

あるいは、ゴッホの絵を買える人はほとんどいない。
しかし、美術館で観たり、本やネットや何かを媒介させて彼の作品を観て、ゴッホの絵から何かを感じ、心が動いた人がいるなら、ゴッホの絵はその人に届いている。
つまり、「届く」というのは、「自分以外の誰かの心に触れること」「誰かの心を動かすこと」と言えるかもしれない。

では、誰かの心に触れられたら、それは良い作品と言えるのだろうか?

そもそもの大前提として、好きとか良いと感じることは至極主観的なものだから、唯一の正解としての「良い作品」というものは、存在しない。
人の数だけ「美味しい」があるように、 人の数だけ「良い作品」がある。

では、私自身にとっての「良い作品」とは、何だろう?

それは単に「感動した」というだけではない気がする。
感動とはつまり、心が動くということだから、「私の心に届く」だけでは、私にとっての良い作品ではないということになる。
もちろん、感動する作品は良い作品ではあるのだが、まだもう少し上のレベルがある気がする。

たぶん、私にとって素晴らしく良い作品とは、
「価値観や考え方に影響を与える作品」
「人生に寄り添い、支えになってくれる作品」

つまり、私という人間が生きる上での、根幹の部分に深い影響を及ぼす作品。
魂に響き、魂に語りかけてくる作品。
魂の栄養となる作品。

(良い芸術作品というのは、ジャンル問わず、魂の栄養だと思う。)

以上が、受け手としての私にとっての、「素晴らしく良い作品」だ。

一方で、プロデュースをする立場としての良い作品は、また少し違う気もする。

作家や音楽家や画家、つまり、アーティストをプロデュースする時、どんな作品を良い作品だと感じるだろう?
どんな作品を生み出すよう、サポートすれば良いのだろう?

マーケティングの視点から考えるとそれはすごく簡単で、兎にも角にも「売れる作品」だ。
しかし、真のプロデューサーという立場で考えると、単に「売れる作品」に導くのは違うと感じる。

そのアーティストが、その時点で掘り出せる、最も深い部分からの、響き。
それを、可能な限り不純物を排除し、結晶化させる。
100%ピュアな魂の声を、結晶化させた作品。


しかし、これだけだと、自分だけを観ている、独りよがりの作品になる危険がある気もするけれど、どうなのだろう?

村上春樹さんの作品がそうであるように、深く、深く、個人の魂の領域を超えて、さらに深く掘り進み、人類の集合的無意識にまで到達した部分からの”響き”は、独りよがりにはなり得ない気がする。

ということは、掘り下げ方が足りないと、独りよがりの作品になってしまうということだろうか?
そして、深い部分からの”響き”だったら、それは必ず良い作品と言えるのだろうか?

あるいは、こういう場合はどうなのだろう?
深く掘り下げた部分からの”響き”を結晶化させ、それを、「分かり易さ」というサンドペーパーで仕上げた場合。
分かり易く仕上げる必要は、あるのだろうか?

伝えることが第一目的だったら、「分かり易さ」は大事だ。
しかし、「分かり易さ」のサンドペーパーをかけることで、不純物が混ざってしまったり、結晶の形を変えてしまうことは、ないのだろうか?
あるような気がする。
そう考えると、作品自体を結晶化させる時には、「分かりやすさ」は必要ないのだろうか?
ひたすらに、その”響き”に極力忠実に、純粋に、結晶化させることに全勢力を注ぐ。
その”響き”を、過不足なく、可能な限り、そっくりそのまま、すくい取る。
遺跡を発掘するように、丁寧に、慎重に、砂を払い、掘り起こす。
そうして掘り出されたものを、全力で届ける。

届けるのは、また全く別の作業だから、やはり、アーティストが作品を作るプロセスでは、「分かりやすさ」などは必要ないのかも知れない?
(実際、ピカソのキュービズムとか、まったく分かり易くないし)

とりあえず現時点では、
「アーティストが作品を作るプロセスにおいては、その時点での可能な限り深い部分からの”響き”を結晶化させる。そこに分かりやすさは必要ない」
という仮説に行き着いたが、引き続き「良い作品とはなんぞや?」に関する思索を深めたい。

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