見出し画像

練り上げるって難しい

子どもたちだけでの話し合い活動を見ていると、なぜかもどかしさを感じてしまう。

一生懸命に自分の思いを伝えようとする子、真剣な眼差しで話し手の理解をしようとする子、そこにいる子どもたちの様子はさまざまだが、なんとか話し合いを進めようと頑張る姿は必ずある。

その場に居合わせ、子どもたちの姿を目にしながら話し合いを聞いているだけで嬉しくなるのだが、一方でその内容には物足りなさを感じることも多い。

何が足りないのか考えてみると、大きく二つの点に気づいた。

一つは、目的意識が薄れていくことである。

例えば学級や学校の取り組みについて話し合うとする。その取り組みのねらいを明確にしてから話し合いが始まる(ねらいがない取り組みや話し合いは論外)とは思うが、話し合いが進むにつれ、なぜが方法論について話し合う流れになる。

あれがいいとか、こうしたいとか話し合うに連れ、最初に掲げたねらいがいつの間にか子どもたちの頭の中から消えてしまうのだ。

もちろん、子どもたちに悪気はない。確かに全力で、話し合い活動に参加しているのである。

しかし、徐々に目的意識は薄れ、何のためにこの話し合いをしたのか、わからなくなるパターンが多い。

話し合いの途中で、一度ねらいに立ち帰り、目的を見失ってないか考えられる子が少ないからである。

あまり気持ちのいいものではないが、子どもたちが自分たちでできるようになるまで、声をかけ続けるしかない。

もう一つは、よりよりものを創り上げようとする意識が低いことである。

最近なのかはわからないが、子どもたちに発言を促すと「とにかく何か言わねば」と批判的なことを意見し始める子が多いように感じる。

聞き手が話し手にに対してマイナス発言をすることで、場の雰囲気は凍りつき、自然と悪い方へと流れができてしまう。

一度このパターンにハマると、この後の話し合いは地獄である。

練り上げるとは、よりよいものにブラッシュアップするものだと私は捉えている。もちろん、相手の意見に全て賛同できないこともある。しかしそこで単に批判をするだけなら、話し合いなど必要ない。

やはり相手の意図を汲み取り、よりよいものにならないか試行錯誤をしていくことが大切である。

子どもたちが生きていく上で、何かしらの集団に所属し折り合いをつけながら過ごすことは必然である。

だからこそ、話し合いを通して練り上げることができる子どもたちに育っていくことを願っている。

これからもそのサポートをしたい。

いいなと思ったら応援しよう!