#24 〇.九三秒!! おそらく世界新記録でありましょう!!
必要なのは才能じゃない。練習、練習、練習、それだけだ。
マイルス・デイヴィス(ジャズトランペット奏者、作曲家、編曲家)
自分よりも何かが得意な人なんて、この世にごまんといるものだ。
たとえば、顔を上げて周囲を見渡して欲しい。今、あなたの視界に入った人たちは、必ずと言っていいほどあなたよりも何かに秀でている可能性が非常に高い。
人は誰しも様々な能力を持っており、そのパラメーターを数値で表したならば、それは高かったり低かったりする。
もしこの世に様々な能力や適性を全人類的に判断してランキングしてくれる物があって、それを気兼ねなく見る事が出来るとしよう。スコアリングである。その無数の項目の中では、もちろんあなたが勝っているところもあるだろう。が、それと同じようにあなたが負けている項目もあるのである。
そのことを「適正」ともいうし、「向き不向き」とか、持って生まれた「センス」とか、「才能」なんていう言い方をする事もある。そこに差が生じているのである。
そういった意味であなたの視界に入った人たちが、あなたよりも優秀な面を持っている可能性が高い。もしも、あなたがそう思えないのであれば、それはあなたがその人の優秀な面に気が付けていないのである。またはその人の事を、良く知らないだけ。かもしれない。
しかし厄介なことに、この適正とかセンスとか、才能ってものは、本人も気が付いていない事が多い。
せっかくの才能が無駄になっている。
という言葉を聞くことがある。他者が客観的に見た時に、有効に活かすべきであるはずの才能を、有効には使わないばかりか、何か別の事に使っており、本来であれば通常以上のアウトプットが得られそうなところを、なんら有益なアウトプットが得られていない時に発せられる言葉である。
もしこの言葉が真実であるのならば、世の中にある才能の多くは、もしかしたらその芽を出すことも無く、ましてや花を咲かせることも無く、ただ土へと還っていってしまっているのかもしれない。
そのように考えると「誰かの才能を見出す」という事の重要性は、全人類にとって非常に大きな事であるように思える。それは文字通り、才能を埋もれさせない事が、世の中に光を当てる事だからだ。
しかし、それは何によって可能になるのだろうか。どうすれば人類にとっての光を、我々は失わずに済むのだろうか。
観察?分析?支援?援助?機会の創出?環境の整備?励まし?運?
あるいはその全て?
または、ここに挙げていないもの全て?
ではここで、皆さんにその正解を発表したい。
それは、
「もしもボックス」
てんとう虫コミックス第30巻掲載「眠りの天才のび太」からの1コマ。
例のごとく、学校で寝てばかりののび太。先生には怒られ、ジャイアンとスネ夫からは馬鹿にされ、家に帰ってはママに怒られ、ママに怒られている最中にも寝てしまう。ドラえもんに「居眠りしながら起きていられる薬」を求めるが、ドラえもんが部屋にいないとわかると、昼寝をはじめる。しかも、昼寝をする夢を見ながら。呆れるドラえもんに対して「ねむるのが悪い、起きてりゃえらいなんて、だれがきめたんだろ」などと言いながら、あるひらめきをしてしまう。
「もしも、ねむればねむるほど、えらいという世界になったら・・・」と。
このコマは、眠りの天才のび太氏が、あけぼのテレビの教養番組「正しいひるね」の取材を受けた時の模範演技をスローモーションで解説しているところである。さて、改めて言うまでもないと思うが、もしもボックスというひみつ道具の説明としては、最新ひみつ道具大事典の51ページにこのように書いてある。
「もしもこんな世界になったら」と電話で話すと、本当にその通りの世界になる。
ドラえもん自身の説明によれば「一種の実験装置」とのことで、「もしもこんなことがあったら、どんな世界になるか」を体験するためのものとの事である。
つまり、もしもボックスというひみつ道具は、社会実験用の機械であると言える。
では、この社会実験を行うというのは、どういう事か。
たとえばこれまでも、このもしもボックスは「音のない世界」だったり、「科学ではなく魔法が発達した世界」などを実験したりしてきた。そして今回は、「ねむればねむるほどえらい世界」を体験するために使われている。
例えば、音ではなく文字に。科学ではなく魔法に。起きている事ではなく、寝ている事に。そのほかにもたくさんの事例があるが、それはここから確認してほしい。
これらを例を概念化して考えると、もしもボックスとは社会の「システム・価値観」を変えた時にどうなるのかを見るための実験道具。という事なのではないかという事が見えてくる。
では今回の1コマに戻り、セリフをみて欲しい。
「〇.九三秒!! おそらく世界新記録でありましょう!!」
お気づきだろうか。
先ほど「社会の価値観を変える」と説明した。この眠る事がえらい世界では、その入眠速度も称賛されるのである。つまり、人よりも早く眠りに入る事はすごい事であるという意味だ。大きく価値観が変化している事がわかる。
①ねむればねむるほどえらい という価値観の世界では、
②速く眠れる人はえらい 世界でもある。
①の価値観の中でこそ、②という事も起こるのである。
他の例を取ってみる。
①あやとりがうまいとえらい という価値観の世界では、
②プロのアヤトリスト達がいる 世界でもある。
このステップは、F先生の得意技であるといえる。1つの設定に対して、2つ目の設定が乗っかってくるのである。おそらくこれは、世界の価値観を変えたのび太の周辺だけではなく、社会がどのように変わるのかを本当に考えなければ出てこない発想なのではないだろうか。
科学から魔法に変わった世界では、科学は迷信として信じられていたように、そのパラレルワールドにはそのパラレルワールドの設定の中での歴史や文化があるのである。
Aというアイディアの先には、Aがある事によって形作られたBがある。
これをちょっと考えてみたい。
私たちも「もしこうだったらいいのになぁ」と思ったり、口に出していってみたりすることはある。どちらかと言えば、その瞬間は何か嫌な事から目を背けて現実逃避したいという気持ちから言う事が多い気がする。
たとえば、嫌な事を避けるというのが「A」だとする。するとやりたくないので「Aならいいのになぁ。」と思うのである。しかし、Aである事によって引き起こされるBの事までもを考える人は少ない気がする。この場合、AはBの原因であると言える。つまり、BはAの結果である。
思いついたアイディアをAだとする。
だから、ねむればねむるほどえらい世界がAにあたる。
Bは、中でも速く眠れる人はえらい。という事になる。
同様に、
Aは、あやとりがうまいとえらい であり
Bは、プロのアヤトリスト達がいる になる。
くどくどと説明してきているが、何が言いたいのか。
まず、Aのアイディアを思いつけるかどうか。いかにこの発想が難しいものであるか。という事について言及したい。ここが出るまでに大変な時間と苦労を強いられてしまう事は言うまでもない。
そして、Aを思いついてからのBを出すまでの事に、思いを巡らせて欲しい。Aを原因として、世界はどのようなBを出すのか。それをひねり出す。
有名な話だがF先生は、アイディアを書き留めるメモをいつも持ち歩いていたという。いつでもアイディアや何かネタになりそうな事があればメモしていたそうである。いざネタを作る時には、断片的なアイディアが書かれたメモを見返して、その中のあるワードと、あるワードが組み合わされて新しい物を産み出していたという事である。
この話を構成した時、その軌跡はどんなものだったのだろうか。及ばずながら、トレースしてみた。
まず、のび太の設定として
よく寝る えらくなりたいがち くだらない発想しがち 努力しない などがあるとしよう
よく寝る → しかられる、馬鹿にされる → 悔しい → でも寝ちゃうし、努力しない → くだらない発想しがち → ねればねるほどえらくなれたら(世界の価値観を変えられたら) → もしもボックス(社会実験装置)
と、おそらくここまでがAの部分である。話のきっかけ、アイディアである。その後のBの 中でも速くねれる人はえらい まではどうであろうか。
このコマの前後からはTV局、教育番組、評論家、スローモーション、オリンピック、世界記録、などのワードが読み取れる。
この「ねむりの天才のび太」の初出は1982年との事であった。所謂ハイスピードカメラの演出は1970年代から存在していたようであるが、一般的にみられるような演出になったのは、この辺からだったのかもしれない。つまり、F先生のメモの中に、スローモーションという言葉があったのではないだろうか。
そこで気になったので、スローモーションの歴史について調べてみたところ、以下のような事が分かった。なんと、1964年の東京オリンピックから、NHKの技術班がスローモーションを使った映像を放送していたそうである。
しかも、
ビデオテープの速度を操作することでスローモーションにさせるという、一種の離れ業
だったそうである。以下ソースを参照。
https://oceans.tokyo.jp/lifestyle/2019-0504-2/
オリンピックは今でこそ、民放各局が放映権を奪い合っているが、基本的にはNHKで放送されるイメージがある。となれば、1964年のオリンピックはF先生は食い入るように見ていたのではないだろうか。この時F先生は、30歳の年である。当然、印象と記憶に残ったことであろう。
そして1982年の直近のオリンピックは、1980年モスクワオリンピックだ。ボイコットなどの経緯から日本の社会的にもインパクトの強い回だったのではないだろうか。日本がこの大会には参加しなかったことから、1982年当時では、次回の1984年のロサンゼルスへの参加へと熱を帯びていたことも考えられる。このような時代背景から、F先生のメモにオリンピック、世界記録という文字が書かれていたのではないだろうか。そして、当然オリンピックに出るような人は、えらいのである。
オリンピックとは記録を競い合う物であり、記録こそが全てだ。だから、当然のごとくに、居眠りだってその速さを記録しなくてはならない。何も不思議な事はないのである。
さて、広告関係の人なら必ず読んでいる有名な本「アイディアの作り方」にも書かれているが、アイディアとは、既存の要素の組み合わせであり、突然のひらめきで0から産まれるのではない。
そして、この本の著者のこんな言葉もある。「広告マンはその点、牛と同じである。食べなければミルクはでない。」F先生はその点で、まさに一流の実践派だったと言える。
アイディアを出す。これは一朝一夕で出来る事ではない。あきらめずに続けて、そしてさらに続けた先に気が付いたらある物だ。一度でも辞めれば、すぐにどこかに行ってしまうような、尊い物である。
漫画家は「命を削って描く」と言う。これは漫画家だけに限らず、あらゆるクリエイターは同じようなポジションで創作を行う。そのために様々な物を取り入れては、自分のアウトプットへとつなげていく。むしろ、新しい組み合わせを見つけることが、アイディアを出すという事なのかもしれない。
現在の私たちの世界で眠りに関して言えることとして、その時間の長さや、深さ、質などが挙げられるだろう。入眠障害や中途覚醒、無呼吸症候群などの睡眠障害は、もはや国民病と言っていえるくらい蔓延している。忙しい現在では、のび太のように入眠速度が速い事に越したことは無いが、それを誰かと競ったりすることは無い。
だから、この「寝る」という行為を、「えらい」という地位と組み合わせたバカバカしさ。そしてそれをさらに、スローモーションやオリンピック、世界記録とも組み合わせたバカバカしさ。
それでいてストーリーを破綻させずに、オチまでつなげるこの構成力。この話は、アイディアを成立させるという事について考えるためのいい教材でもある。
F先生は天才だ。だがその天才さは、その勤勉さと日々の努力によって成る物だ。眠りの天才であるのび太だって、日ごろから寝るという事に対しての努力を怠らないのだ。
残念ながらまだ電話一本で突然えらくなれたり、世界の価値観が変わったりすることは「もしもボックス」が開発されるまで起こらないだろう。
だから我々がもしそうしたいと思うのならば、練習、練習、練習しかないのである。
そう、必要なのは才能じゃない。
だから眠い時は寝よう。それもある意味で努力なのだから。