#36 ときどきりくつにあわないことするのが人間なのよ。
理性には心情の気持ちがわからない。
フランスのモラリスト ヴォーヴナルグ
どんな人にも2面性はある。
首尾一貫しているように見えても、その思いと考えは必ずしも一致しない事もある。
「思考」という言葉について見てみよう。
物事について思い、考える事を指す。
ここからもわかるように、「思う」ことと「考える」ことはそもそも別にあり、違う物だがかなり近い存在である。一緒にいると言ってもいい。
しかし、よく「〇〇だと思うけれど、××と考えるべき」とか、「××だと考えるけれど、〇〇と思ってしまう」という言葉を聞く。
誰しもがこの2面性の矛盾の中に生きていて、その折衷案を探しているように思える。単に、それを理性的に行うのか、それとも感情的に行うのかで結果に違いが出る。
不思議なことに肉体という同じ物体の中にありながらも、矛盾する事もあるこの2つの要素。我々の中で、思いと考えの関係性はどのようになっているのだろうか。
まず今、僕の中で「あ、自分の中には思いと考えの2種類の物があるな。これが自分の行動の理由となっているんだな。」と頭の中で言っているのは、思いなのだろうか考えなのだろうか。まぁどちらかと言えば、考えに近いか。
情報の処理の仕方と考えると、感情と理性という風に言い換える事も出来るかもしれない。
しかし、理性的に考える、という言葉と共に、感情的に考える。という言葉もある。おかしい。感情は思いであって、考えではないのではなかったか。この理屈は通らないかもしれない。
一緒にいるようで、やはり全く異なるものとするべきだ。しかしお互いになんらかの作用をしている。なぜならば思いの伴わない考えは辛いし、考えのない思いも辛い。これらが相反する時、我々はストレスを感じるようになっている。
感情的に処理しようとしている時、理性は何をやってるんだろうか。理性的に処理している時、感情はどこにいってしまうのだろうか。
我々の行動の全ては思いと考えによって支配されているはずなのに、時にそれを見失うのはなぜなのだろうか。
とまぁ、無意味で長ったらしい「理屈」をつけて自分の思いと考えを定義付けようとしてきた。しかしできるだけ言語化しようとすればするほど、陳腐にそして本質から離れていくような気もするのでこの辺で本題に入ろう。
では、下記のコマを見てもらいたい。
てんとう虫コミックス 大長編ドラえもん 7 のび太の鉄人兵団 からの1コマ。
「どうして人間の敵である自分を助けるのか」と聞くリルルに対しての、しずちゃんの一言だ。とても有名な1コマだ、知らない人などいないと言ってもいい。
個人的には、出来るならば大きな額に入れて部屋に飾りたくなるような金言でもある。このコマをそのまま背中にタトゥーとしてもいいかも知れない。あ、ダメだ。大好きなお風呂の仲間、銭湯に行けなくなってしまう。
さてアニメ版の設定として、彼女は小学五年生である。つまり、10〜11歳の女の子だ。こんな子供に、我々は諭されるったらない。どうなってんだ。
ここでリルルの言う「敵」とは、文字通りに人間に取っての敵対者であり、簒奪者であり、略奪者である。決して、小学五年生が遊びの中で言う「敵」ではない。
遠い宇宙から、人間の命を奪い征服するためにやってきたAIが今回の敵であり、リルルがその斥候(スパイみたいなもの)であったのだ。
だが、しずちゃんは献身的とも言えるくらいに看病をした。
実際にリルルには首を絞めて殺されそうになった彼女が、どうして敵であるロボットを助けたのだろうか。
友達になりたかったから?
ほっておけなかったから?
人間そっくりで、ロボットと思いきる事が出来なかったからだろうか?
助けたいと思ったから?
答えは、彼女のセリフの中にある。
「ときどきりくつにあわないことするのが人間なのよ。」
考えとしては、敵を助ける理由はない。思いは、複雑だが上記のような事があったのだろう。
この2つの要素が入り混じっていつつも、しずちゃんが出した答えは「助ける」であり、そこには理屈がないのだ。ではどういうべきか。こうだ。
しずちゃんは、そういう人だから。そういう素敵な人だから。
ね?理屈じゃないのである。
しずちゃんは、リルルを助けずにはいられなかったのである。ここを間違えてはいけない。
決して、これは友達だから!とか、親友だから!じゃない。そういう陳腐な言葉の応酬で、ドラえもんの映画を語らないで欲しい。
さて、最終的にしずちゃんのこの理屈ではない行動が地球を救い、リルルをメカトピアごと滅ぼした。
いやいや、メカトピアは滅んだんじゃなくて、生まれ変わったんでしょ?という声が聞こえてきそうではあるが、のび太達の目の前から霧のように消え去ったメカトピア軍団は滅んだと言うべきだ。残念ながら、滅びの無い再生などない。
よく考えてみて欲しい。長い歴史を持って栄えたメカトピアという文明を、彼らには自衛の方法がない根本の部分から変えてしまうのだ。そんな恐ろしいことは無いだろう。ここは恐怖におびえるべきところである。メカトピアには戦わないで暮らしているロボットだって存在していたのではないだろうか。
しかもこれを逆にやられるところだったのが、次作にあたる大長編どらえもん8「竜の騎士」であったのも興味深い。恐竜人類たちは、タイムトラベルをし哺乳類の先祖を根絶やしにする事で、地上を自分たちの物にしようとしていたのだ。
以前に自分たちがやったこと(まぁリルルがやったことだけども)を、自分たちがやられるとどうなるのか。そういったテーマの連作と見ると、また違った面白みが出てくる。
ファンタジーの中に置いても、物事の残酷さ、起きている事の本質を忘れないF先生らしさだとも思う。いつだって大長編のストーリーの中枢にある物は深刻だ。そして、同じ手法(ここでは先祖に影響を与える)なのに、鉄人兵団と竜の騎士では、全く違う物に見える。ほんと天才かよ、あ、いや天才なんだけど。
もっとすごい事は、見ている分にはそんな風には思わないように作られている事だ。ストーリーがするすると展開して行き引っかからない。だから逆に、立ち止まって、思って、考えた時に、あれ?これってこういう事だよな。となるのがドラえもんの面白さだと断言する。
分解して分析して、思いめぐらせた時に別の味が出るのだ。それは考えすぎかもしれないし、本質なのかもしれない。そこも楽しめるのだ。
とまぁ、それらを踏まえた上でも、鉄人兵団の最後にメカトピアが生まれ変わったであろう描写があるのは、とてつもない救いだ。
ここでもどうしても言いたい事がある。
エピローグとしてリルルが窓際に現れ微笑んだ後、のび太が窓枠に立って空を見上げている事から、リルルは本当に天使のようなロボットになって飛んでいたことがわかるコマがある。
しかしここの最後を描写しないというか、リルルをそれ以上描かずにリルル視点から、空を見上げるのび太を描いているところに、F先生のこだわりを感じざるを得ない。
このカメラワークというかコマ割りはオシャレすぎるし、物語の余韻や喜びと驚きの表現を見事に表しているし、さらに物語の複線を回収している。
このコマはちょくちょくあるオーラス前のやばい珠玉なコマの1つなのである。
是非、もう一度確認してほしい。コミックスを持っていない人は買ったらいい。持っていないならば、買うべきだ。何やってんの。このコマの為に買ったっていいくらいだ。だから、アップはしないよごめんね。
あそこまでリルルとの関係性を描きながら、最後に会うのがしずちゃんではなくのび太というのは主人公だからという理由もあると思うが、逆にそこもまたオシャレなのだ。
しずちゃんがこの後リルルとまた会えたのかもしれないし、やっぱりのび太の見た幻だったのかもしれない。
その結果は一切描かれていない。でもそれでいい。どっちでもあるし、どっちでもない。野暮だ。だって、
ドラえもんの映画・大長編の良さというのは、余韻なのだから。
天使のようなロボットになったリルルは、もはや人間かそれ以上のなのかもしれない。そしてそうしたのは、しずちゃんの思いと考えによる行動である。そこにはもはや描く必要のない絆があるハズだ。会わなくたってそれで十分だ。
それがエンターテインメントのあるべき姿だ。
さて我々も結果が見えなくても、思考を止めてはいけない。そして、後悔をしないように行動する事が大事なんだと思う。例え、それが理屈に合わなくても。
もしも、自分の中の矛盾につぶされそうな時、それでも前に進むと決めた時、なぜそうするのかと疑問に思ったり、誰かに聞かれたりしたら、このセリフを言おう。ちゃんと手の平を上に向けて、ウィンクしながら。
そうやってちゃんと自分に向き合っていたら、もちろん痛みや悲しみも伴うだろうが、思ってもない良い結果も得られるのかもしれない。あ、いや結果じゃないんだったね。
生きるとは、理屈じゃないんだ。人間とは理屈だけじゃないんだ。
そんなんじゃないんだよ。
マジだぜ!!