#26 だいじょうぶなんじゃないかな。たぶんだいじょうぶだろ。
VUCA(ブーカ)という言葉を聞いたことがあるだろうか。
Volatility(変動性・不安定さ)
Uncertainty(不確実性・不確定さ)
Complexity(複雑性)
Ambiguity(曖昧性・不明確さ)
という4つのワードの頭文字をつなげた物で、今の経営とか個人のキャリアの状況を表現するキーワードだそうだ。
もうちょっと具体的に噛み砕いてみる。
例えば、
大企業に就職しこれで安泰だと思っていたら、不祥事や事件などであっという間に倒産してしまう。
世界経済の目まぐるしい変化の中で、ついてこれなくなった企業がその突如として灯を消してしまう。
情勢やマーケットを読み方向性を決めようにも、その複雑さから読み切れないという事は想像に難くない。
このようにはっきりとした答えは無く、ぼんやりとしたヴィジョンや計画しか描けないような中で事業をしていかなくてはならない。
しかしそんな何が起こるかわからない世の中にあって、どのような決断するか/できるかが、これから求められるリーダーシップなんだそうだ。
あぁそうかもね、そういう時代だよね。と言いたいような、そりゃいつだって当たり前の事だろ。と言いたいような気もする。
とにかくこの現状の事を、VUCA時代という。どうやら西暦2000年頃にアメリカなどで言われ始めたらしく、そんなに昔の話ではない。むしろ最近になって日本でも言われるようになったそうである。
そのことについて考えていたら、このコマが僕の心に入ってきた。
是非とも見ていただきたい。
てんとう虫コミックス大長編ドラえもん2「のび太の宇宙開拓史」からの1コマ。
ガルタイト鉱業の策略によって、星ごと窮地に立たされたコーヤコーヤ星の人々、スーパーマンとして待ち望む彼らの元へ駆け付けたいのび太とドラえもんを足止めしていたのは、ママからのび太を勉強をさせるようにと頼まれたしずちゃんだった。
なかなか抜け出せないのび太達。そこへボロボロになったチャーミーが無理やりやってくる。ママに逆らってでもコーヤコーヤへ行くことを決意するのび太とドラえもん。
しかし、いざ畳をめくってみると、超空間のつなぎが外れかかっていて、もしかしたら戻ってこれなくなってしまうんじゃないだろうか。という懸念に対してのドラえもんのコメントというシーン。
ゆらゆらと揺らめく超空間の中に、徐々に離れていくコーヤコーヤ星への扉が見える。不安定なつながりの中で、不確かな根拠を元に、複雑な事情を加味して、どうなるかわからないけれど、みんなを助けに行かなくてはならない。
助けにいくという結論に伴うリスクは、ママの言いつけに逆らう事だけではない。もう地球に戻ってくることができないかもしれない。という大問題は、ママのお小言程度では済まされない。
ドラえもんは、口に手を当てる動作をしている。
これは心理学的には「自分を隠したい」という心の現れだそうだ。つまり簡単に言うと「嘘をついている」事を隠したいという事だ。または、何とかして落ち着きたいという気持ちでもあるらしい。
どうやら人は自分の匂いをかぐことで、緊張状態を少しでも緩和したいと思うらしい。動物的な本能だろうか。ドラえもんはロボットだが。
またここでいう、「嘘」とは何か。それは、セリフから読み取れる。
「だいじょうぶなんじゃないかな。たぶんだいじょうぶだろ。」
注目すべきは、だいじょうぶの前後につく言葉だ。
「〜なんじゃないかな。たぶん〜だろ。」
まず問いかけをしている。しかしこれは自分に対してだ。後半の方も、自分に対しての言葉であろう。自問自答だ。落ち着くためとも言えるし、考えをまとめるため。とも言える。
そうであって欲しい。という願望が自らに問いかけをさせ、さらにそれに自分で答えるという事で、本当は否定しなくてはならないものを何とか肯定したい。という心の機微なのだと読み取れる。
つまり、はっきり言えば何の根拠もないのである。というか、全然大丈夫じゃない。と言える。しかし、のび太とドラえもんはコーヤコーヤ星の人々の為にいかなくてはならない。彼らは自分を犠牲にしてでも、行きたいのだ。
だからここで今、決断しなくてはならない。そんなシーンが、汗びっちょりの緊迫感と共に描かれている。物語のクライマックスへの助走がここから始まっているとも言える。
さて一般論として、アメリカと比べて日本のシステムや考え方は遅れている。とよく聞く。これは謙遜とも卑下ともとれるし、事実かも知れない。
だがほぼ日本に住んでいる自分から考えると、アメリカの事を良く知らないし、分野によっては遅れているのはむしろアメリカだろ。ぐらいの気持ちがあった。
僕は若い時にカナダの大学に通っていたが、その時はさほど差を感じなかった。むしろ、カナダはシステム的に遅れていると思ったことも多々あった。
しかし2019年に、改めて南カリフォルニアのロスアンゼルス近郊にある、数々の企業が軒を連ねる街に行く機会があった。大谷翔平君がいるあたりだ。
高所得者層しか住めないような比較的新しい街であるというその場所は、何もない荒野だったところを競うようにして開発されており、それでいて理路整然とした都市計画の元に、美しい街づくりがされていた。
街中には一本の雑草もない。浮浪者もいない。ただただ整備された街並みと、色とりどりの住宅街と、高級そうなコンドミニアムが並び、世界中の食べ物と、世界中の企業と、世界中のショップがあり、どれもが一流だった。そして全てが大きく、余裕があった。
「こりゃあ日本は戦争に負けるわな」僕が思ったことはこうだった。納得せざるを得ないに十分な体験だった。と同時に、「この人たちは、もうこの生活を捨てられないだろうな」とも思った。
最近のアメリカ大統領の発言や行動指針から、ジャイアニズムのようなものを感じるくらい、強引さや自己中心的な考え方を感じる事がある。
アメリカという国を全て理解している訳ではさらさらないが、今回見た側面から見るとこの生活を守るためにならば、彼らはどんな事だってするのではないだろうか。という考え方に至った。
彼らにとっては普通なこの生活は、そうでない僕のような人間からすると正直良すぎる。本当にすごい。憧れてしまう。マジだぜ。だから、そんなに良い物を誰が他人の為に犠牲にするというのか。となる。
全て理解できる訳ではない。が、立場が違えば理解せざるを得ないような気もした。彼らには彼らの守るべき生活があるのだ。まぁこれも当たり前だ。
それ以降、何が違うのだろうか。という事をよく考えるようになった。差を見出して、すり寄るべきなのか、それとも独自の道を見つけるべきなのか、答えが無いままにごちゃごちゃと考えてしまうのだ。
そんな中でこのVUCAという概念は、もしかしたら数ある答えの1つなのかもしれないと思えた。
現在の世の中にはモノやコトが溢れている。無い物を探す方が難しいくらいだ。そんな中でイノベーションを起こしたり、独自の路線を歩んでいくというのは至難の業だ。
とはいえ、人がやらない事はというのは存在する。ではなぜ人はそれをやらないのだろうかと考える。多くの場合それは、人がやらない事はVUCAに当てはまるからだ。
仮に思いついても、行動に移すにはVUCA(ここではリスクみたいな捉え方)が大きいからである。成功する確証が少ないからやらない。そういう事だ。
しかしそれに反するかのように、VUCAと一緒に出てくる用語がある。
「OODAループ」である。
「みて、理解して、決断して、やってみる」
要するに意思に関するルートを、慣れ親しんだPDCAサイクルから抜け出させるための物だと理解する。
OODAループは、アメリカ空軍のパイロットの教育で使われているそうでだ。一瞬のためらいが命を奪う事になるかも知れないパイロットは、常に状況を確認しながら意思決定をしていく。当初の計画通りに行動していたのでは、生存できないからだ。
OODAループとPDCAサイクルの違いは、意思決定までのスピードと実際の現場での検証の頻度の多さと言える。
PDCAサイクルだとPLANから始まる。つまり、ちゃんとした計画が無いと実行に移せないという事だ。そうはいっても計画を作るというのは大変な作業である。終始一貫して筋道がないといけない。
しかも計画は実際の現場に対応して作られるのではなく、机上で作られたものであることが多い。何かしらの似たようなデータを用いて作られており、それそのものが市場にもたらしたデータではない事が多い。プランありきは、プランを作る人によって左右される。さらに言えば、実際が計画と違う時には、破綻してしまう可能性がある。
計画は過去にこういう傾向があるから、これもそうの可能性がある。という推論を元に計画が立てられるのがほぼである。そうである確証などない。そんな計画を立てることに非常に時間と手間、コストが掛かるのである。
一方OODAループは、「みる」から始まる。見るのは、もちろん市場である。その市場で戦えそうなのか、現状はどうなのかをみるのである。これは、市場を「理解する」まで見る必要がある。
理解できたら、「決める」どういう方向性なのかを決めるという事だ。これは仮説を立てるという事だと理解している。その検証を市場そのものでするために決めるという事だ。決めたらとにかく「実行する」。そしてまた市場の反応を「みる」。
市場を見て仮説を立ててはすぐに検証していく。このようにループしていく。
「いついつまでに、どうしていく。」というプランありきではなく。市場を生ものとして捉えて状況を観察していくという事である。早く、そして臨機応変に、このループは終わらないものとして捉える必要がある。
OODAループとPDCAサイクルとの違いは、実際の現場・市場との距離にあると言えるかもしれない。OODAループの方が、はるかに近い。
事業計画を作れ。と経営者は良く言われる。どのような計画の元に事業の見通しがあり、そのためには何をしていくのか。という事が共有できなければ、意思統一もできない。これはPDCAのPにあたる。
ここでこんなことを言ってしまっていいのかどうかわからないが、この時のPLANほどいい加減な物はない。なぜなら時代はVUCAなのだ。仮説は立てられても、こうなるはずという計画は立たないのではないだろうか。詐欺師か、大ほら吹きになるしかない。そんなものをなぜ欲しがるのだ。と思う。
もはや一般論に基づくデータなどが通用しない世の中なのだ。だから、市場の中で検証していく必要があるという事なのだろう。しかし、世の中はPを求める。これが無いと何をしていいかわからないからだ。もしかしたら、日本は特にそうかもしれない。
例として最近のゲームがあげられる。
最新作が〇月×日に発売!と告知されたが、発売日が延期される。理由は計画している完成品にするためだ。良く聞く話だし、今回のFF7リメイクもそうだ。
しかし海外ゲームソフトなどは、とにかくリリース日を変更しない。後々になってパッチを当てていけばいいという前提で作られている。多少のバグもなんのそのだ。もう、そういう物だとユーザーも思っている。
さて、どちらがOODAループに乗っているかは言うまでもないだろう。
ドラえもんとのび太はこのコマの後、のび太の「いこう!」という決心で、超空間に飛び降りる。
この時の彼らに計画などありゃしないのでないだろうか。
机上でああだこうだとプランを作っていたら、コーヤコーヤ星はコア破壊爆弾によって消滅してしまうのではないだろうか。
さらに言えば、宇宙一の殺し屋ギラーミンに対して、のび太は勝算という計画があったのだろうか。早打ちの前の彼は、ギラーミンをよく見て仮説を立て心を決めて引き金を引いたのではないだろうか。言うなれば一所懸命である。
もし自分の命や状況を捨てでも戦う時があるとしたら、そこに必要なのはOODAループではないだろうか。
計画を立てる事が悪いのではない、計画に縛られるのが悪いと言いたい。理解してもらえただろうか。
そう。だから、そういう理由なんです。根拠なんかないんです。どうか計画を出せなんて面倒なこと言わないで融資してください、銀行さん。
だいじょうぶなんじゃないかな。たぶんだいじょうぶだろ。いこう!