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アートを通して考える2:ろう者と聴者のためのトークセッション第1回「異なる感覚の可能性」

育成×手話×芸術プロジェクト

2020年10月31日(土) 13:00~15:00、オンライン開催

モデレーター:荒木夏実、進行:管野奈津美・牧原依里

ゲスト講師:伊藤亜紗・松﨑丈

松﨑丈氏のトーク

芸術分野とは別の調査研究として、日常生活でろう者は視覚に優れているとわかっている。人の顔をよく覚えている、人の動きにすぐ気付く、など。

ルネサンス期頃のヨーロッパなどでろう者のアーティストが存在した。宮廷画家になった人も。当時は知能が低いと見なされることがあり、芸術活動は、自分たちは「愚かでない」と証明する手段でもあった。ダヴィンチは「ろう者も視覚などから学び、知能が劣っているわけではない」と主張。

19世紀から、ろう者が芸術表現としての手話を行う。手話を使った演劇もあった。

1960年に、「手話は言語だ」とする論文が発表される。それまでろう者は手話を芸術表現と見なしていたが、そうではなく言語であるという認識が広がった。

それでも、ろう者が通う学校の教育は、聴者の社会になじむためのものだった

聴者の所有物だった「音/音楽」をろう者の視点から捉え直す芸術表現が生まれる。ろう者の音楽性の探求。ダンス、リズミカルな動きなどから音楽が感じられる。ろう者も音楽を楽しみ、奏でる。心地よさを感じる。
アート映像作品・ドキュメンタリー映画『LISTEN リッスン』
共同監督・撮影・制作:牧原依里・雫境(DAKEI)

ろう者は固有感覚で、はり、ゆるみ、動きの長さ、リズムで、音楽を感じているのでは?

固有感覚:
身体の深部にある感覚。動き、体の維持など、身体感覚。

視覚:サッケード
見るときの目の動き、運動。
そのリズムで音楽的なものを感じるのでは。

ダンス作品『Seasons March』ピナ・バウシュ振付の場面。ろう者が見ても心地よい動き。

ろう者の芸術活動と、ろう者の聴覚支援学校の美術家教育との関係:
美術教員はろう者の生徒に対して「困難をあまり感じない」。聴者に対するのと同じ教育しかしていない。

今後の教育は「自分探し(自分がどうなるか)」が重要。ろう者にはそれができる学校教育の環境がないのでは。ろう者がろう者の文化に出合い、その文化と自分との関係を問い、その文化の継承者になるかどうかを考える機会があることが大切。

Paddy Ladd(イギリス)が「Deafhood(デフフッド)」を提唱(childhood=子ども時代といったhoodの使い方)。ろう者としての自分探しができる環境をつくる。

松﨑氏は埼玉県の公立小中学校でデフフッドの授業を実践している。
国語:「セミの声に耳を澄ませるとセミが見つかる」という文章。ろう者である自分の場合は、どうやってセミを探す?と問い掛ける。
英語:be動詞/自己紹介の学習で、「I am deaf.」という例文を加える。

(筆者の感想:英語の教科書でI am Japanese.が「標準」扱いなのも問題。今は違うのだろうか?日本の学校にはいろいろな人が通っているはずだから)

言語としての手話を芸術としても探求。芸術からわかったことを教育に還元し、教育の実践で生じた課題を研究で深める。その3つの分野を結び付ける。

伊藤亜紗氏のトーク

異なる身体の人とどう共通言語をつくるか?

ろう者は抽象よりも具体的なことの方がわかりやすいという。

先天的な全盲の人は天ぷら定食をどう捉えているか?
→デスクトップにアイコンがあるように皿が配置されている。クリックする(口に入れる)と、何か(食べ物)が出てくるイメージ。2段階の認識になっている。
それを、晴眼者と共通に持つ概念である「パソコン」の比喩で伝え、相互理解に近づいた。

言語:「伝達モード」と「生成モード」。
生成モード:やりとりの中でメッセージが生まれていく。

目の見えない人とのスポーツ観戦:ジェネラティブ・ビューイング
従来の方法では、言語で伝える。でもそれだと、現場にいても一体感がない。

柔道の翻訳:柔道を見ながら2人の晴眼者が手ぬぐいの両端を持つ。視覚障害者がタオルの真ん中を持つ。晴眼者2人が選手2人の動きを、タオルを引っ張り合いながら表現し、視覚障害者がその動きを感じて試合を体験。細かい技などはわからないが、勢いや駆け引きを感じられる。

本『目の見えないスポーツ図鑑』。21_21 DESIGN SIGHTの企画展にも出展されている。
スポーツ選手にも参加してもらった。

ラグビーの翻訳:晴眼者でも、そのスポーツ未体験で選手とまったく異なる体形でも体感したい。視覚障害者も知りたい。スクラムは、敵と協力しないとできない。キッチンペーパーを2本縦に組み合わせて2人で前端をそれぞれ手や頭で支え、バランスを取ることで、それを体験。具体的にすることで感じる。
「見る」だけだとスクラムは秩序のない固まりに思えるが、身近な物を使うと違うとわかる。晴眼者もその体験をした上でラグビーを「見る」と、体験の解像度が高まる。

フェンシングの翻訳:木で作った小さいフックのような物を知恵の輪のように2人で組み合わせて、1人は外そうとする、もう1人は外すまいとする。剣を強く握るのではなく、柔らかく使うことを体験。

野球の翻訳:ピッチャー役の肩に視覚障害者のバッター役が触れている。ピッチャーが腕をスイングしてストッキングを引くときに、そのストッキングの端の赤い部分をバッターがつかんだらホームラン。

言葉で伝わるよう表現:
「ぽさ」の研究
ルネサンスっぽさ:理性/バロックっぽさ:ドラマ

歴史上の美術表現としては言葉で表現できるが、今の日常的な物で表現すると?
ルネサンス/バロック:せんべい/もち、結婚/恋愛、だし巻き卵/スクランブルエッグ、プールで泳ぐ/川・海で泳ぐ


自分とどう関連付けるかで「わかる」。
ルネサンスやバロックも、現代の東洋人には理解しづらいが、自分と関連付けるとわかってくる。

・「伝達」より「生成」
・違うからだが共に参加できる場を設計する
・メタファー(身近なものへの翻訳)の力
・共通言語は「言語」とは限らない
・「つかう」ことで「わかる」

ディスカッション

荒木氏:
ろう者の美術鑑賞ワークショップ。よく見えて、豊かに表現する。
でも学校の美術教育では、その「特質」(得意分野でもある)を生かした教育ができていない。

松﨑氏:
音楽や体育(ダンスなど)の授業でも、ろう者の特質は考慮されていない。
視覚や運動機能に着目しない。

伊藤氏:
卓球の動きは速くて言葉で伝えきれない。プロジェクト参加者で相談中に、そこにあった物を使って試してみたのが始まり。

松﨑氏:
特質を伸ばす可能性を探り、それを「健常者」も一緒にやってみる場があるといい。

伊藤氏:
「英語で学ぶ」ように、「美術で学ぶ」。「を」ではなく。
興味のある人だけでなく、誰もが体験するものに。

荒木氏:
障害者という言葉はやめて、それぞれの特質と捉える。
特性がある人は芸術分野にいく人もいる。
デフフッドのように、各自の自分らしさを自身も周囲の人も認め、必要に応じて助けを求め合う。
そうしないとみんな苦しくなってしまう。

伊藤氏:
教えている大学の美術の授業では、それぞれの「感じ方の違い」を引き出すのが大事。
同質に見えて一人一人まったく違う。
ネット社会の中で、批判に防御的になっていて、自己検閲してしまう。そこを突破してもらうために、思った通りに表現していいんだと、肯定的に捉えて、そういう場を作る。すると、どんどん独自性が出てくる。

質疑応答

松﨑氏:
聴者にとって、音声言語の「イントネーション」が音楽に近いのでは。赤ちゃんのときは手足の動きをもっと使う。聴者が大人になると口を主に使うようになる。
そういう動きが音楽性につながっていくのでは。

感想

こういうことを「健常者」の学校でも教えてほしい、触れさせてほしい。外国語を知るように、別の世界を知る権利があるというか。

「障害者」はマイノリティーであるゆえに「健常者」の世界に触れざるを得ないが、マジョリティーの「健常者」はマイノリティーの世界を知らなくても生きていけてしまえる。でもそれってもったいなくないか?

私は健常者のふりをして生きているが、本当はいろいろな点でずれていることをわかっている。それがなるべく表面化しないように無理をして繕っているのだと思う。

きっと実はみんなそう。存在しない「健常者」の理想像を自らに課すことで、みんなが自己抑圧して苦しくなっている。

なんか涙が出る。

社会で働いていると「有能」「無能」という価値観に押しつぶされそうになるが、実はそれも一つの尺度でしかないことを知っておくことは、精神的にも身体的にも健全なことだと思う。芸術的な表現活動も研究も、触れる人にとってそういう効用がある。

言語の優位性も虚構。

おそらく結構な数の職場では「言語能力」が重視され、その表現が得意な人が優位に立ちがち。特にリモートワークが主流になってくる場ではそうだと思う。でも、得意分野は人ぞれぞれで、ほかの分野も生かせるはず、というか「生か」さなくてもよくて、それでもとにかく大切なはずなのに、軽視されることが多い社会構造になってしまっている。

第2回の開催情報

​「第2回 ことばを超えて伝える、届ける」

ゲスト講師:南雲麻衣・和田夏実

開催日時:11月8日(日)19:00~21:00

参加申込締切日:11月4日(水)


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