「仕事」をせずに素直に生きるトリセツ(中編②: 両足を泥沼へ)
再び印試
修士論文提出から1ヶ月後に人生2回目の院試を控えていた。今回は論文提出と共に燃え尽き症候群になってしまい、思うように勉強が進まない。
試験は、英語の筆記試験と論文の内容に関する口頭試問だった。英語についてはジタバタしてもどうしようもないため、何もしなかった。口頭試問の対策としては、もう一度自分の書いた拙い英語を読み返し、試験に備えた。
運命とは流れ
試験は意外とあっさりと終わった。ここまでくると結果は、どうでもよくなる。落ちていても、受かっていてもどちらでもよかった。
今までの人生のターニングポイントを振り返ると、自分ではコントロールできない何かに誘導されている気になる。多かれ少なかれ、生きている人間は全員そうだろう。
ある軌道に乗ると、とりあえずそのサイクルに流されてみる。無理に抵抗する必要などないし、多分できない。だから、別のサイクルがやってくるまで待つ。
仏教では人間の苦しみの中に、五蘊盛苦 (ごうんじょうく) と言うものがあるらしい。自分の力では、心や状況をコントロールできない状態のことだ。
でも、「素直に生きる」とは、その流れに身を委ねて浮き輪のように波に流されることではないか。
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そのような心境で合否を待つ。結果は「合」であった。が、嬉しさも悲しさも感じなかった。ただそのサイクルに入ったのだと思った。
両足が泥沼へ
修士課程はまだ片足を泥沼に突っ込んだ状態で、まだ身動きができる。でも博士課程は、両足だ。もうここから動くとなると至難の技だ。
僕は相変わらず高校で非常勤講師を続けながら、大学院の授業を受け、研究を続けていた。
博士課程は、ほとんど授業がなく自由度が高い分、自分の裁量で研究をしなければならない。これが案外やっかいで、お見合いの時代からいきなり恋愛至上主義の世界に入ったかのような感覚になる。
詰まるところ「自由とは不自由である」と、エーリッヒ・フロムのようなことを言ってみる。
与えられたことをすることは、それほど難しいことではない。正しい手法を見つけてマニュアル通りにすれば、いつかは終わる。
でも自分でするべきことを設定して目標を達成しなければならない状況下では、マニュアルは自分で作らないといけない。これが難しい。
太っても「太ったよ」と言ってくれて、食事と運動の管理をしてくれる人がいないと、なかなかダイエットが成功しないのと同じだ。
お勉強ができても、研究が進まない人は、ここで躓く。知識が増えても、そこから既存の問題点を見つけて、独自の発想力で問題の解決策を見つけないといけないからだ。
泥沼がスタート地点
研究にかかわらず、人は泥沼に入った時にエンジンがかかるのだろう。
選択の余地を捨てて、逃げ場をなくすのである。何か目標を立てて、やる気がでない時は、捨てていく作業をすると上手くいく。
目標の周りについた脂肪を剥ぎ落とす有酸素運動が必要になってくる。
僕の場合は、「みんな」の声をシャットアウトすることが、ダイエットだった。お金や結婚というキーワードをとりあえず捨てた。
後編へ続く。