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推し活で醜い気持ちを持つことの意義

「推しの人生の中に私はいらない」

数年前、Xにそんな投稿をした記憶がある。
何人かのフォロワーさんから共感のリプライが送られてきて、いいねも一定数もらえた。

しかしそれは虚栄心から生まれた大嘘だった。
推しの人生の中に一瞬でも私があってほしい。
恋人とか友人など推しの人間関係に混ざろうとは思わないが、推しにとっての何者か、いや何物かになりたい。

先日、『人類にとって「推し」とは何なのか、イケメン俳優オタクの僕が本気出して考えてみた』(横川良明著)という本を読んだ。
そこに書いてあった言葉に私は衝撃を受けた。

いつか推しが大きくなったとき、その山あり谷ありの道のりのどこかに、自分というタイルが埋まっていて、少なからず推しが今立っているその場所の礎になっているなら、それだけで自分という人間がいた意味を感じられる。

横川良明(2021)『人類にとって「推し」とは何なのか、イケメン俳優オタクの僕が本気出して考えてみた』サンマーク出版 p19

「推し活ってこんなに謙虚なものなんだ……」

私が衝撃を受けたのは、私の推し活の認識とはあまりにもかけ離れていたからだ。
横川氏が用いた例に自分の認識を当てはめるとすると、私は「推しが歩む道の側溝の蓋になりたい」という認識でいた。
推しが側溝へ落ちるのを防ぎ、推しに「側溝に蓋があって良かったな」と思われたい。
蓋全部が私でなくていい。蓋の一つでいい。
しかし横川氏の「タイル」という認識と比較すると、ずいぶんスケールが大きいのは事実だ。

自分はなんて傲慢なのだろう。
そう思い至った時、推し活においての自分の醜さが急にありありとよみがえってきた。
推しがプロキャリアをスタートさせた時から応援してきたことが悪い意味でのプライドとなり、新しいファンにマウントを取ることがあった。
逆に「推しくんが認識してくれた」などとファンからマウントを取られることにはカチンとくる。
「私の方が長く応援しているのに」と思うことも多々あった。
推しのゲーフラを掲げても、推しがまったく気付いてくれない時はショックを受けた。

推し活とは、清く正しく美しいものではないのか。
肥大化する自意識と嫉妬に、自分で自分が許せなくなった。
他の人はもっと清らかな心で推しているのだろう。
ファンサがもらえなくてもへこまないし、どんなファンとも「一緒に推しを応援していこうね」と心から仲良くできるのだ。
もちろん私にも心から仲良くしたいファンは何人もいる。
しかし以前、会うたびにマウントを取ってきて他の選手にも推しアピールするようなファンがいた。
そういうファンが私は許せなかった。私だって新しいファンにマウントを取っているのに。

醜く気持ち悪い自分をぶん殴ってほしい。
本気でそう思った。

悩むあまり、私はXにポストしてしまった。
周囲からの反応が怖かったが、数名のフォロワーさんからリプライが付き、DMで相談に乗ってくれる仲間も現れる。
その仲間にはブロック覚悟で私の醜い気持ちをすべてさらけ出した。
ブロックされるかスルーされるかと思いきや、仲間はひたすら受け止めてくれた。
返信の内容はそれほど長くなく、私の気持ちが正しいとも悪いとも言わない。それでも私にとことん寄り添ってくれた。
また別の仲間は「醜いのはもう、私にもすごく自覚ある!」という返信をしてくれた。
ネガティブな気持ちを持っているのは私だけではない、と心が軽くなる。

とことん受け止めてくれた仲間。
共感して心を軽くしてくれた仲間。
二人の力でもう一度自分の気持ちと向き合った結果、私はようやく気付いた。

醜い気持ちは誰にでもあるもの。
それは自然に湧き出るものであり、その時点で善悪はない。
ようは醜い気持ちを態度や行動に出すか出さないかだ。

推し活をしている人が清く正しく美しく見えるのは、醜い気持ちを表に出さないからなのかもしれない。
醜い気持ちを表に出せば最後、周りから「◯◯推しは民度が低い」などと言われ、推し本人に迷惑をかけるからだ。

醜い気持ちは誰もが持っているものだろう。
その醜さの程度や、先述の「タイルか側溝の蓋か」という認識の違いは、各個人によってかなりばらつきがある。
「私はタイルにすらなりたくない。推しの中に私は絶対に必要ない」という人もいれば、「推しの人生の架け橋になりたい」というスケールの人も中にはいるだろう。

私はこれ以上他人との差を比べて悩みたくはない。
私は側溝の蓋の一つになりたい。
これは叶うか叶わないかという問題ではなく、善悪の問題でもなく、ただ単にそこにある気持ちだ。
ふっと自然に湧き出た気持ちに良いも悪いもない。
湧き出たのだから仕方ない。
醜い考え方をする自分の思考のクセがあっても、それを根本からたたき直すのは無理がある。
私はそこまで自分をがんじがらめに縛り付けたくない。

重要なのは、醜い考えを態度や行動に出さないこと。
態度や行動に移した瞬間、その醜い言動は悪になる。
周囲から「民度が低い」「排他的」などと言われることはもちろん、推しに直接的な被害を与えることにもなりかねない。
それは推し活でも何でもない、単なる迷惑行為だ。行き過ぎると犯罪にすらなり得る。

私が持つべきなのは清らかな心ではない。
むしろ「自分は清らかな心を持っている」と思った瞬間、道を踏み外すことになるだろう。
自分が醜いことを常に自覚しつつ、醜い自分を責めすぎない。
その結論に辿り着いた時、私は推し活の苦しみからいくらか解放された気がした。

推しの歩む道はまだまだ続く。
私は側溝の蓋の一つとして、前へと突き進む推しを見守っていきたい。


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