キェルケゴールの窓

 ひとは無反省な限り何かに希望を抱いており、反省を始めた途端に絶望的になるかのように、差し当たりは思われている。深く考え込まずに、長すぎる視点に立たずに、とりあえず生きて居れば、漠然とした目標もあるし、まさか数十センチ先のコップを手に取ることに失敗するなどとは思いもしない。仮に数歩先が全く巧妙な落とし穴であり、数秒後に命を落とすことになろうとも、そのようなことは思いつきもしない。

 ところがその実、ひとはさしあたり希望しているどころか、むしろ無反省なときこそ絶望しているのではないか。何かに希望を抱き続けることほど困難なことは無いのではないか。というのも、無反省な状態の者が考えることのないこととは、なにも自らが危険に晒される可能性だけではなく、先ほど確かに「とりあえず生きて居れば、漠然とした目標もある」と言ったが、このことだって、彼の正面に据えられることはないのである。彼は漠然とした目標を持ちつつも、自らが漠然とした目標を持っていることを正面から意識してはいない。精々、視界の隅にちらつくだけである。であるから、むしろ彼に対して「君は――漠然としたものとはいえ――目標を持っているね?」などと言った場合には、彼の口からは慌てて否認する言葉が返ってくるのである。「いや別に、そんな大したものはないけど」であるとか、「まぁーーほんとに漠然としたものだけどね」であるとか。

 というのも、その仕組みは簡単なもので、彼が自らの危険を意識しないことは、自らの理念を意識しないことに基づけられているのである。自らの理念を意識すること――自らをその理念へ結びつけられた者として具体的に規定すること。自らを輪郭の無いわたあめとしてぼんやり眺めていたところから、しっかりとした形をもった何がしかのものとして規定すること、それはつまり、潜在的な遍在の可能性を限定して、具体的な地点・時点へ自らの足を立たせることであり、とりもなおさず、自らに具体的な理念と同時に具体的な危険を準備することである。自らに理念を約束することは、同時にその道中の危険を約束する。もし仮に何等の理念も規定しなければ、たとえコップを手に取り損ねたとしても、たとえ試合に敗北したとしても、たとえ道中で穴に命を落としたとしても、それが果たして何らかの「失敗」であったのかどうか、このことはいくらでも曖昧になるのである。

 ある道を進んでいた者が、巨大な壁に突き当たったとき、その者が「道を進む」という具体的理念を自らが抱いていることを否認すれば、別段、彼が壁に足止めされたことは何ら「失敗」ではない。彼はそのようにして自らの「失敗」を退け、壁を嘲ることに成功するのである。だから、ある者に「君は――漠然としたものとはいえ――目標を持っているね?」と聞くことは、「君は――いつかは分からないとはいえ――躓くね?」と聞くことに他ならないのであって、そのような攻撃を受ければ、咄嗟に防衛するのも無理からぬ話である。


 今日、我々が避ける語彙――「目標」「理念」「努力」「信条」「倫理」「善」「哲学」「思想」「正義」「信仰」「宗教」「愛」そして「希望」。公的には飾られ、井戸端では唾を吐きかけられるこれらの言葉。「暑苦しい」言葉。「重い」言葉。「こっぱずかしい」言葉。「キレイゴト」。しかし、これらの「キレイゴト」を嘲笑いながら自らの汚れを固持する者は、その実、汚れることすらできていなかったのではないか?

 「夢」という言葉は幾分中立的である。というのも、「夢があるね」という言葉はそれだけならば称賛か嘲笑か全く見分けがつかないからである。

 希望を抱き続けること、それは全く不毛で不条理な努力なのであって、狂気の沙汰である。しかしこれこそが我々の本当に求めているものなのであって、求めつつも手に入れられずに泣いているところのものなのである。無情な世界がより善くなることをどうして希望し続けられようか。自分を何度も裏切った者をどうして愛し続けられようか。悪を創った神をどうして信頼できようか。私を追い詰め続ける明日が、それでも良い日になるとどうして祈れようか。しかし我々がずっと欲してやまないのはそのことなのである。「死にたい」という嘆きの根音は「生きたい」という希望の旋律ではないか。


 我々はさしあたり絶望している。「別に私は善人じゃないよ」は謙遜の言葉とは限らない。そもそも、謙遜は嘲笑と表裏一体である。我々は自らが善のために存在していることを認めることができないでいる。だからさしあたりは、巨人に身を預けて仕事をしている。仕事は「社会のため」のものであるが、働いている当人は「社会のためにやっている」などと口が裂けても言いたくない。自分自身にしても、醜聞を曝した著名人にしても、快楽に溺れることこそがその者の「本性」であると喧伝するのは、太陽を見るよりも日陰を眺める方が目に優しいからである。

 我々はさしあたり絶望している。その絶望を深めないほどに絶望している。謙遜するほどに絶望している。しかしそこに「君は目標を持っていて偉いね」という謙遜か嘲笑か聴き取れぬ言葉が投げかけられるとき、それは絶望を深化させる契機ともなる。「そんな大したものは持っていない」と言葉にすることで、彼は自らが目標を持っていないとすればどうなるのかということについての省察を巡らす契機を手にするからである。

 以上のようにして、つぐみはキェルケゴールの「非本来的絶望」を読み直した。

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