【死生観】同じような苦しみを持つあなたへ。| 死の恐怖との共生
果たして私は、死について真剣に向き合ってきたと言えるのだろうか。
そんなことをふと思った深夜4時58分。
双極性感情障害になるずっと前から折に触れては考えてきた死。
特に高校3年の頃、自習室で考え込んだ際は、それがむしろ未来への原動力となった。この時ばかりは向き合えたと言っていいと思う。
つまり、今は向き合えているとは言えないということである。
なぜか。
年を重ねるごとに、死について考える際は、結局のところ、その死から、その恐怖から、どうやって逃げるか、どうすれば考えずに済むか、というような後ろ向きな姿勢が根本に存在していたからである。しかしそれは、どれだけ事細かに"考えている"としても、真に"向き合っている"とは言えないと、ようやく気がついた。
死と向き合うことの本質は、死というものを明日に控えたとしても、だからこそ今日この1日を前を向いて精一杯生きてやろうという気概と活力が自ずと溢れてくることなのでは、と思うのです。
私に至っては、本来そういうものだと、知っていたはずでした。
よく成功者はこう言います。
「なんで行動しないの?」って。
彼らの中でも死の本質と向き合った人、そうでない人、双方いるとは思いますが、どちらにしても今日をエネルギッシュに生き、未来を楽しみに生きている。だから行動ができる。順番が違うのかもしれませんね。つまり今日をエネルギッシュに、未来を楽しみに生きるには、目標が必要だというわけです。
でも、みんながみんな具体的な目標があるわけではないですよね。
何より私がそうです。
だから、今すぐ具体的な目標を立てて行動するのではなく、まずは死に対して前向きな姿勢で対峙すること。これがひとつキーになってくるのではないかと思うわけです。
私は一度死について考え出すと、宇宙の端っこのことまで考えてしまうような人間です。とても深くまで行ってしまうと、鳩尾の部分がサァーっとする感覚に包まれます。
例えば輪廻転生。
これが事実だと仮定した場合、生まれ変わった世界では、自分は一体どうなってしまうのか。生まれ変わる時代は本当に未来だけなのだろうか。そもそも一体このサイクルはいつまで続くのか。自分とはなんなのか。
だんだん気持ち悪くなってきますよね。
これ一例です。
こうやって、ある種極端に考えることで、死の恐怖に慣れよう、と本能的にしてきたのかもしれません。
ただ年数にして10年弱、こんなことを考えては深いところまでいっていた私が今思うこととしては、どこまで考えたとしても、そこに幸せはない、です。もちろん恐怖も解決しないです。
私自身興味のあることに対しての向学心は強い方なので、知的欲求を満たすために死について考えを巡らせるのはいいと思います。
しかし、心を病んでいる人や死を深く考えては生力が吸い取られてしまうような人は、そこを追求することはやめることをお勧めします。
対処療法はできると思います。
が、根治療はできません。
心が楽になるような考え方も実際ありましたが、それは一時的なもので本質的ではありません。
何回も折に触れて考えたということがまさにそれです。逃げ続ける限り、後ろ向きな姿勢を取り続ける限り、何度でもこの恐怖の波は来ます。
じゃあどうすればいいのか。
死へのカウントダウンのみをイメージすることです。それ以外はいりません。10年悩み抜いてきた私が辿り着いたのはここでした。死を遠ざけるのではなく、あえて近づけること。
物事の本質とは、結局のところシンプルなものばかりです。
以前の私のように死を後ろ向きで捉えることはただの現実逃避であり、実際のところそんなことをしている暇はないわけです。なぜなら、今日も刻々と死へのカウントダウンがなされているわけですから。時計の針でもイメージしてみてください。そうすることで一度しっかり焦ってみましょう。
その時計は明日で止まるかもしれません。
いや、あと数時間かも。
ちょっと焦りますよね。
そしてしっかり焦ってみたら、その中でパッと頭に浮かんだものがあるはずです。それは、やり残したことかもしれないし、会いたい誰かなのかもしれない。以前から気になってる近所のケーキ屋のアップルパイかもしれない。大小なんでもいいので、無理は言いません、それらを今日から1年以内に実行すると心に誓ってください。まずはそこから始めてみましょう。
きっと生きるって、こういったことをただシンプルに積み重ねていく仮定なんです。どうりで難しく考えても、うまくいかないわけです。もし今死にたいと思っている方も、それをひとつやってからでも遅くはないんじゃないですか。
あっ、気づいたら目標できましたね。
今回は珍しく、ふと思ったことを書いてみました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
それでは。
LislandR.