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先生、しゃべりすぎ! 解説しない授業のつくりかた

先生は何でも解説したい。教えてあげたい。
生徒に学ばせるといっても、結局は話して伝えることがメインになりがちだ。投げかけて、自分で答えてしまう。問いを出して指名して答えさせる場面はあるが、少ない。指名せずに、うなずかせて次に進めてしまうこともある。
どのクラスでもほぼ決めておいた展開で、生徒に妨げられることなく、先生の解説中心で同じ授業ができるなら、録画で代用できる。目の前の生徒との対話が展開に不可欠ではないなら、対面授業の意義が乏しい。

本当に読んでも生徒はわからないのか

教科書記述は不親切だと思っている。自分ならこの表現はしない。この順序で説明しない。前提や背景がわからない。先生は教科書記述に文句を言う。何も知らない生徒が初めて読んだとき、どんな風に意味が伝わるのかを考えたい。
先生が教えたいことが必ずしも教科書には載っていない。載っていたとしても、話す醍醐味があるから、教科書を読ませるよりも話に喰いつかせたい。
教科書記述を不十分と考えることもある。自作の教材で補う。配布物や提示資料を準備しなくても、日常的に話しや解説で、口頭で補っている。不十分だと感じるのは、こうあるべきという先生のポリシーがあるからだ。先生が持っている指導目標がある。指導目標は学習目標ではない。先生のポリシーだ。先生が専門家になるために選び抜いて身につけたもので、なかなか譲れない。先生は専門家としての見解や見識を持っている。だから、教科書記述の周辺や関連、背景や奥行きを知っている。指導目標は独自性のあるポリシーだから、できれば貫いて守りたい。教科書記述や学習目標より優先したい。だから、対話より解説中心の授業になる。

学習目標に指導目標を譲る

指導目標はポリシーだから、先生の好みが含まれている。これぐらい知っておいてほしいとか、これぐらいわからないと困るという言葉は、先生の主観が多分に含まれている。このことを自覚するのは難しい。大学入試問題に出題されるから、ということを根拠に教えなければならないと言う。一度でもどこかの入試問題で目にすれば、教える必要があると確信する。教える必要性は不断に吟味しなければならない。教える必要性と教えたい気持ち、醍醐味を混同してしまう。

教えるから学ぶへの転換は容易ではない

続く

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