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小春日和

小説「あの頃の中国で……。」周辺の物語(1991)


小春日和の休日だった。

後に父が送ってくれた写真から、晩秋の穏やかな夕暮れの陽射しが、うちの座敷を長く照らしていて、北陸の12月初旬にしては、その日、天気が良かったことが伺えた。

その写真には、半紙に毛筆で書かれた「朱さん」という字を持って、母が正座して写っている。少し笑って。

その日、日本のテレビ局で研修中の朱さんが一人、私の実家を訪ねて、両親に挨拶に行った。まだ日本語が初級レベルの朱さんに、「一人で大丈夫?」と、中国から私が電話で聞いても「大丈夫です」としか言わなかった。

この写真は、朱さんが帰ったあと、父が母に「それ持って。記念に」なんて言って、朱さんを駅に出迎えにいった時に掲げていた紙を持たせて写した写真だろう。安心したような、ほっこりとした母の笑顔だ。

中国からの客人は、娘が「いい人」と手紙に書いてきた青年だ。以前、娘が二人で写っている写真を送ってきていたので、駅のホームで、すぐにわかった。

朱さんのほうは、先週、辞書で調べた敬語を書いたメモを読み上げ「おじゃま、させて、いただきます」と、電話をかけていたものの、まさか駅まで迎えに来てもらえるとは思ってもいなかったらしい。

それは私も同じだ。父は手紙にはっきり、結婚には賛成しかねると書いていた。それでも、娘が中国で世話になっているからと思ってくれたのだろう。

家に着くと、朱さんは、中国から持って行った二人への土産と日中辞典と中日辞典を旅行鞄から取り出したらしい。それらを座敷中央の座卓に置いて、慣れない正座で待っていると、書斎から父も辞典と大きな紙と鉛筆を持って来たという。

「足を崩して、ラクにしてください」

お茶を持ってきた母に言われても、朱さんは姿勢をくずさなかったという。中国にはもちろん正座の習慣がないし、跪くというのは屈辱の姿勢ですらあるのだが、中国のテレビ局から支給のあった海外研修服装費で購入したスーツを着て、朱さんは正座をしていた。

その日、大きな紙と辞書が置かれた座卓を挟んで、父が朱さんに話したことは二点、質問が一点。話したことは、一、外国人との結婚により、君の前途ある将来が制約を受けることはないのか。二、万一、二つの国の関係が悪くなった場合など、娘が日本に帰れなくなる可能性はないだろうか。

戦争を経験し、高度経済成長時代を働き続けてきた父の心配だ。

朱さんは例のごとく、「大丈夫です」と答えた。「一度、中国を見に来てください。そうしたら、安心してもらえると思います」

それは確かにそうだった。見えないものは怖い。2年前の天安門事件の画像は中国の印象として刻まれている。

「1年に1回、理子さんが必ず日本に帰れるようにします」

朱さんは経済的根拠もないのに、父と約束をした。

あの時、父がした質問は「給料はいくらですか」朱さんの答えは「300元です」日本円にして、5000円。

朱さんを迎え入れたテレビ局の技術部の部長さんの給料が80万円だと聞いて、朱さんが驚いていたバブル時代だ。

「一度、中国を見に来てください」朱さんはもう一度言い、「行きますよ」と父からの約束をもらった。

朱さんが帰ったあと、父と母はどんな話をしたのだろう。夕暮れの陽射しが差し込む座敷で、「それ持って、記念に」と母に「朱さん」と書かれた紙を持たせて写真を撮った父。優しく笑う母。

父と母は、私たち2人の前に続く長い道を思い浮かべていただろう。私と朱さんは、ただ父が「行きますよ」と言ってくれたことだけが嬉しかった。

根拠のない自信に満ちた若い私たちだった。(完)


読んでいただいてありがとうございます。「あの頃の中国で……。」の後に続く物語です。1991年のことを書いています。







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