ともとも

死ぬ前に誰かに伝えたいことがあるはずだと思って、noteを始めました。小説やエッセイを書いていきます。

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死ぬ前に誰かに伝えたいことがあるはずだと思って、noteを始めました。小説やエッセイを書いていきます。

最近の記事

1991、中国、キミと自転車で‥‥ ①

誰にでも振り返れば愛おしい「あの頃」がある。 有希にとっての「あの頃」は、1991年の中国で、好きな珈琲が飲みたくて、自転車を漕いで外国資本のホテルに出かけ、そこでぬるいインスタントコーヒーを口にしていたあの頃。 三十年の歳月が過ぎ、今は高層マンションの部屋でお気に入りの珈琲豆を挽いて、ゆったりとその香りをかぐ贅沢がある。 この三十年、中国は急激な発展を遂げた。その発展のスピードは、あの頃の誰も、たぶん誰一人想像し得なかっただろう。いま、街にはスタイリッシュな高層ビルが建

    • 中国人になれなかった私が未来のためにできること

      昔、『中国人になった私』というエッセイ本を出版した。1991年に青年海外協力隊の日本語教師として中国に赴任。その後、現地で知り合った男性と結婚し7年が過ぎた頃だった。赴任当初は貧しい街並みだった中国が、7年の間に、誰もが予想だにしなかった急激な発展期を迎えていた。 『中国人になった私』を出版した当時、私は実際には中国人になっていなかった。ただ、普通に恋をして結婚し、そこに暮らして、自分の知っている中国を日本に伝えたいと思っていただけだ。タイトルは出版社から提案され、私は戸惑い

      • スキがゼロ 

        前回書いた文章にスキが1つもつかなくて、ゼロのまま。ゼロってのも、ありか~。そうすると、なんか逆にその文章が愛しくなりました。目に止まることもなかった私だけの文章。 スキを評価と捉えないきっかけになったかも。 スキすること、されること或いはされないことに慣れなくて、スキしてくれた人のnoteを見に行って、この人のスキはホントのスキじゃなくて、見たよってことなのか~とか、考えたりもしたけど。 なんか、ゼロって、気がラクなとこもあります。 承認欲求ありありなのに、わかってくれない

        • 母さんが一人の老人に変わる時

          90歳を越えて迎える毎年の誕生日は、どんな気持ちだろう。 先週末、母の子ども3人(皆、60を越えていますが)に囲まれて、91歳の誕生日を迎えた母は口数も少なく、穏やかに座っていました。 「母は老人になったんだ」と私が感じた日は、母が75歳頃だったと思います。突然、母をそれまでの頼れるお母さんではなく、老人なんだと認識しました。そんなふうに見方を変えないと受け入れられなかったのです。寂しかったです。 母は幸い大病もせず、認知症もなく、血圧が高い以外は健康です。91歳でも、庭

          改めまして…。note迷走後のリスタート

          noteを始めて一カ月近く、まずはやってみなくちゃわからないと、毎日更新にトライしたものの、スキやPVの数字に惑わされ、並んでいる他人の文章や先人のHow toに戸惑い、まさに迷走……そして、立ち尽くすこと半月。 ネットでの個人発信に慣れない私は、入口をくぐったのはいいものの、このシステムに懐疑的になったり、諦めてみたり、いくつかの文章を削除したり、うろうろしていました。 でも、読み手側にまわり、やっぱ文章好きだな、言葉での表現を愛する人の近くにいたいな、隣にもnoteを

          改めまして…。note迷走後のリスタート

          学校ごっこ ①

          「ごっこ」といっても、決して遊びの気持ちだったわけではない。 ただ、10年の月日を振り返ると、「ごっこ」だったと、自責の念を込めて認めたくなるのだ。 33歳の校長は、毎日、何かと戦うみたいに懸命に働き、疲れて、眠り込んでしまっても、翌朝は誰よりも元気に教壇に立った。何と戦っていたんだろうか。へとへとになるまで、何と戦っていたんだろうか。 戦った相手は、相棒の王玲美ではない。彼女と私は相棒と呼ぶにふさわしいコンビネーションだった。1つ年上で、頭の回転が速く、数学が好きで、

          学校ごっこ ①

          笑顔

          いつも思い出すのは、キミの笑顔。幼かった頃の、屈託のない。 いつも笑っていた。声を出して笑っていた。 ごきげんな毎日。コロコロと笑っていた。 キミに楽しい毎日を。それが一番の願いだった。 キミの笑顔が私の支えだった。 思春期が訪れ、キミは以前のように笑わなくなった。 誰もが通る道だと、見守ってきたつもりだけれど、それがよかったかどうか、自信はないよ。 おとなになる道で、 子どもの頃には見えなかったものが、輪郭をもって見えてくるだろう。 楽しかった日々の裏側も

          只今、迷走中

          たどり着いたnoteという町は、励ましてくれたり、導いてくれる優しい仕組みのある町だとわかった。 けど、隣の人や先に住んでいた人たちのドアを開け、作品を見ればみるほど、ここは私が来るべきところじゃなかったかも、と思ってしまう。 読み手に寄り添うこと、ターゲットを絞ること、論理的に組み立てること、評価をあげるためにやるべきこと、そういうことから解放されたくて、たどり着いたはずなのに、好きなように書きたくて選んだはずなのに、ここでもまた、自ら縛られ始める……気がする。または、

          只今、迷走中

          昔、童話作家でした。

          20歳を前に焦ったんです。もうハタチだ。どうしよう。 これ以上、大学にいると、就活シーズンに同じようなスーツを着て面接に行く人になってしまう、どうしよう……と、思ったんです。目標もない中で、社会のために役立つ人になれるのかな。 私は、大学を休んで東京に文章修業に行くことに決めました。大学は地元の国立大学でした。子どもの頃から書くことが好きで、文学部に行けば小説の書き方を教えてくれると思っていましたが、全然違っていました。 大学をやめていくことも考えたのですが、周囲の反対

          昔、童話作家でした。

          クリエイターと呼ばれて。

          note初心者の真面目な私は、由々しき檸檬さんの作品「編集者目線で見ると(以下省略)」を目を丸くして読んだのだが、まんまとやられた感を味合わせてくれる面白い記事でした。タイトルをここに書くのもドキドキするので控えますが、まだの方はご覧ください。 そうです、そうなんです。それ、私です、と言ってました。 noteはユーザーの自尊心を刺激し、おだてるのが上手い。 そしてnoteユーザーは、おだてられるのに弱すぎる。 ただブログを書いているだけのユーザーを「クリエイター」と呼ん

          クリエイターと呼ばれて。

          noteはまるで……

          まるで、ひとつの町のようだ。 隣の人のことが少し見える。興味があったらドアを開けて、入っていく。さらに彼の考えていること、想い、過去、夢に耳を傾ける。話したければ会話をすることも可能だ。 隣の人の興味が自分の興味とはかけ離れていて、驚くこともある。素通りするドアもある。 面白いのは、同じ町に住む人のことが常に「少しわかる」ことだ。素通りするドアでさえ、少し見えるから、その人もまた自分の世界で生きているって感じられる。それでいいんだって、感じられる。 リアルの町なら、ド

          noteはまるで……

          時代のうねりが押し寄せる

            1991年12月、ソ連が崩壊した。信じられない出来事だった。人のよさそうな、頭に地図模様があるゴルバチョフさんはとても信頼できそうな人に見えたのに。人がよすぎたのだろうか。 そして、中国では1992年1月、88歳のトウ小平さんが南方に出かけ、春にかけて「南方談話」が発表された。社会主義と呼んでも、資本主義と呼んでも、大事なことは発展すること、大胆に進むがよい、とトウさんは言った。 その言葉は確かに、社会に大きな変化をもたらした。はっきりと肌で実感できるほどの時代のうね

          時代のうねりが押し寄せる

          自分史にはしたくなかった

          自分の経験をもとに小説を書いてみたんだけど、自分史にはしたくなかった。創作として、自分が歩いてきた道を形にしたかったの。 歳をとった人間の思い出話に、わざわざ耳を傾けたい人は奇特な人。   ただの思い出話ではなく、あなたに伝わればいいなあと思う。 私にとっては、若いあなたが読んでくれれば、それだけで幸せ。 分断されたくないんだ、若い人たちと。だって、肉体は衰えても、魂は案外、トシをとらないんだよ。だけど、思い出話が耳障りなのかもね、共有していないものが多すぎて。。 道

          自分史にはしたくなかった

          どこかで誰かが見ていてくれる

          きっと誰かが見つけてくれる、自分なりにがんばっていれば。 そう思ってる。 やっぱり認めてほしいんだ。キミ一人にでも。 みんなに認めてほしいなんて思わないけど、誰かに見つけほしいんだ。 誰にも見つけられずに埋もれちゃうのは嫌なんだ。キミに見つけてほしい、あ、こんなとこに、って。 だから、ここだよ、私はここにいるよって、明日も書こうと思うんだ。

          どこかで誰かが見ていてくれる

          小春日和

          小説「あの頃の中国で……。」周辺の物語(1991) 小春日和の休日だった。 後に父が送ってくれた写真から、晩秋の穏やかな夕暮れの陽射しが、うちの座敷を長く照らしていて、北陸の12月初旬にしては、その日、天気が良かったことが伺えた。 その写真には、半紙に毛筆で書かれた「朱さん」という字を持って、母が正座して写っている。少し笑って。 その日、日本のテレビ局で研修中の朱さんが一人、私の実家を訪ねて、両親に挨拶に行った。まだ日本語が初級レベルの朱さんに、「一人で大丈夫?」と、

          バレンタイン  戻らない夜

          恋人同士のお約束、バレンタインは特別な日、愛を確かめる日。 遠距離恋愛のわたし達も離れているからこそ、確かめなくちゃ、愛を。私の気持ちを伝えなくちゃ。愛は溢れているよって。会いたいよって。 2月、あなたは遠く離れた釧路にいたね。慣れない極寒の土地で、社会人1年生をがんばっているあなたに、がんばっての思いを込めて、チョコを送るよ。会いたいよ。遠すぎるよ、会いたいよ。雪は深いですか。寒いですか。 チョコを受け取ったあなたの笑顔を思い浮かべて、カードを書いた。 「私のLOV

          バレンタイン  戻らない夜