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国を跨ぎ続けた3年間①

私は、日本人として初めて、米国主体のデュアルディグリープログラムであるエマーソン大学(Emerson College)とパリ美術大学(Paris College of Art)の連携学士、グローバル映画芸術学士(Global BFA in Film Art)を取得した。このプログラムは比較的新しく、私の代で3つ目の卒業クラスである。エマーソン大学は映画学校では米国第6位を誇る名門学校である。私がこのプログラムを選んだのは他でもない一般的な映画学校教育に物申す芸術思考の教育理念であり、特に、「様々な文化の中で自立を図り自己と映画の限界を押し広げる」という項目に共感したことが第一の理由であった。

プログラムの内容としては、開始が夏学期、6月の終わりからボストンにあるエマーソン大学で一学期(2ヶ月)勉強をし、そこからパリにクラス全員が引っ越す。全員強制的に同じ建物内で一人暮らしをさせられ、秋春学期(9ヶ月)をパリ美術大学で学びながら過ごす。2年目の夏はまたボストンで二学期(3ヶ月)過ごし、その後またパリで秋春学期を過ごすが、今度はアパートの手配も自分で行わなくてはいけない。翌夏はオランダの田舎にあるKasteel Wellというリノベーションされた城で二学期過ごす。こちらはエマーソン大学の所有するキャンパスである。その後、秋春学期を最高学年としてパリで過ごしパリ美術大学を卒業(この間に卒業制作を撮影)、その後の夏二学期をボストンで過ごし卒業制作の発表の後エマーソン大学、およびGlobal BFA in Film Artの学士をもって卒業という、夏休み無しで二大学から3年2ヶ月で卒業する、超スピーディーでとてもハードなプログラムだ。私たちのクラスは、36人で開始したが、卒業までたどり着いたのは22人と、デスゲームかよと思うくらいな勢いだった。

実際の体験は、文字通り限界突破の繰り返しの日々であった。言語のわからない国での一人暮らしが第二学期である秋学期から始まり、同時に簡単すぎるように思えた授業に憤慨を覚えながらもフランス語が話せないため自室の外へ足を踏み出すことへの抵抗、即座に恋愛に走った周りの友人への密かな憎しみと戦いながら多くの時間を部屋で泣きながら過ごした。自炊は、自分の知る限りの最低限のものを、瓶ソースと合わせたパスタやベーコンとほうれん草を炒めてバゲットに突っ込んだものを主に食べていた。時間をもっと有効活用しようと日本人の子供にオンラインで英語を教えるバイトを少々やってみたものの、気がつくと課題用の自分の作品作りでバイトに割ける時間は無くなっていた。今思うと、最初の秋学期の当時が一番辛かった。パリの生活に慣れるために多くの脳内再開発を行なった。そもそも日本国外には「ハーフ」なんて人種はおらず私はただ一人のアジア人(?)としてしか見られないことは飲み込むのにかなり時間がかかったし、周りに日本人が一切いない中アメリカ人とのカルチャーショックを体験していた頃は多くのグチが頭の中に2チャンのように流れる日々を過ごしていた。対人関係を繋ぐなかで自分が「思ったことを言わない」ことがどれだけ両者にとって損失的なのか気がついたのはその2年後のことだった。とにかく日本で育ってきて学んだ「あたりまえ」を打ち砕き取り除く作業が続いたが、そのプロセスはネガティブな感情と長時間向き合うことになり、「アメリカ人はバカなのだ」と何度もアホくさい言い聞かせを自分にした時期もあった。日本人を基準として多文化を見下すことがどれだけ愛国的で幼稚なのかも知らずに。食べ物の味も慣れて美味しさがわかるまで時間がかかったし、やっとの思いで繋がった映画関係のパリ在住日本人にはセクハラにもあった。当時、19歳の自分には全てがトゥーマッチだったのかもしれないが、残りに残った微かな力で風に飛ばされそうなシーツのように踏ん張れた理由は、どんなに嫌で辛い経験をしていても、自分が今一番居たいのは他にもないこの地で、この部屋で、この学校で、この学科なのだと気づいた時にはどうしようもない絶望と自分の真の望みの眩しさに押し流されシャワーを浴びながら号泣したのをよく覚えている。

ちなみに、そのタイミングで作った短編映画は「死」を広げた解釈で表現したダークファンタジーであり、まさに当時のシーツのような思いをそのまま映像化してみたので、ぜひご覧になっていただけると嬉しい。

その後のことは、また別の日に当時の思いとそれらから生まれた作品などと一緒に綴るとする。

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