
【謎3】悪魔は本当に存在するのか
最近、とある映画にはまりました。
【ヴァチカンのエクソシスト】という作品です。
SNSのトレンドにあがるほど、話題になっておりました。
この映画は、以下のクレジットから始まります。
「悪魔の存在を否定する時 悪魔は喜ぶ」
When we jeer at the Devil and tell ourselves that he does not exist,
that is when he is happiest.
アモルト神父が生前に残した言葉です。この言葉がスクリーンにドーンッと浮かんだ瞬間に、私はゾッとしました。
悪魔は実在するのか。なぜ否定されるのかについて今回は語っていきたいと思います。
悪魔の存在を否定する聖職者
この映画に興味を抱いた理由の一つが、カトリック教会内で「悪魔の存在に否定的」もしくは「エクソシズムに懐疑的」な聖職者たちの存在を描いている点です。
「エクソシスト全肯定」ではなく「否定派」の意見をしっかり書くことで、物語のリアリティが増します。
映画鑑賞後に、いくつかのエクソシスト関連の書物を読みました。「悪魔などフィクションだ」と疑問を抱く聖職者たちには、ちゃんとした理由があります。
1■悪魔のせいにして、その人自身の心の問題に目を背けている
2■その人自身の罪ではなく、悪魔のせいにしてしまっている。
3■罪は罪、病気は病気として認めなければならない。
アモルト神父はこれらに対して「98%は精神疾患」だが「2%はどんな治療も効果が無い、悪の存在によるもの」というのです。ここが人を惹きつけたポイントであると感じます。
しかし、仮に「悪魔が憑いていたから」だとして、例えばその人が犯罪を起こしたことを「悪魔のせい」として「無罪」にして良いのでしょうか。
ヴァチカンのエクソシストのレビューでは以下のように否定的な感想も寄せられていました。
スペインの異端審問を全て悪魔のせいにするのは、解せない。
ネタバレになってしまいますが、映画内では「スペインの異端審問」を唆した人物が「悪魔憑きであった」と分かるシーンがあります。
これに対して、異端審問は教会が犯した「人間の罪」であり「悪魔のせい」にしてはならない。この反対意見は道理に適っています。
悪魔のせいなのか、病気なのか
心理学を勉強している時、ビリー・ミリガンという人物の症例に興味を抱き、関連著書を読んだことがあります。
彼は解離性同一性障害(昔で言うところの、多重人格症)でした。20名以上に人格が解離した人物です。そのうち反社会的な人格が犯罪を起こしたのですが、当のビリー本人は「人格が交替している間の記憶は全く無い」というのです。
ビリーの症例が興味深いのは、多重人格に懐疑的な医者・学者たちが「ビリーに罪を認めさせるため」に「化けの皮をはがしてやろう」と診察をしたことでした。彼は「演技をしているのだ」と。当時は「多重人格症を認めない」学者が多くいたのです。
けれども診察した彼らは一同に「人格が変わる度に、全く別の人間と話していた」と口を揃えたのでした。つまり本当に、ビリー本人の意思とは異なる領域で、彼は罪を犯したのです。けれど世間は彼を無罪とは簡単に認めませんでした。
ビリーの症例を読んで最初に抱いた印象は
「これって昔なら、悪魔憑き案件じゃないの?」
誠に浅学ですが、率直な意見です。
ビリーの人格障害は、子どもの頃の性的虐待が原因だったことは判明しています。ただしビリーの中にいる「アーサー」という人格の存在について、私は不思議でなりませんでした。アーサーは流暢なイギリス英語を話す人格だったのです。ビリーはこの発音をどこで会得したんだ、と学者たちは首を傾げました。
悪魔憑きとされた方の中には「その人が知るはずのない言語や訛り」を突然口走る人がいます。日本でいうところの「憑依」のような現象でしょう。これがアモルト神父の言う「2%」の本物の特徴です。
しかし「ビリーに悪魔が取り憑いていた」と公に発言するのは避けた方が良いでしょう。実際にビリーによって被害に遭った女性は一生癒えない傷を負いました。
ビリーの罪も病気も、ビリー自身のモノとして受け止めるべきだ、という考えを私は否定できません。ビリーの症例は「悪魔憑きのようだ」という程度の推測で留めたいと思います。
先程「悪魔憑き、悪魔の存在に否定的な聖職者がいる」と述べました。
「自分自身を見つめ、罪を認め、病を受け入れる」のが大事なのは確かですが『エクソシスト急募』という本を読んで「全てを自分のせい、自分の問題と受け入れることがその人にとって本当に幸いなのだろうか」と考えさせられる記述を見つけました。
アモルト神父の紹介で精神科をすすめられたクライエントの中には「アモルト神父の元へ戻れるように診断書を書いてほしい」と頼む方がいたそうです。こう言われてしまったら、医者やカウンセラーは複雑な心境ですよね。
ではなぜ、精神治療よりも、エクソシストを望むのか。
自分にすべて原因があるのではなく、外部(悪魔)に理由がある、と考える方が、クライエントの心がいくらか楽になるから。
「全て自分のせいだ、自分に原因がある」という認識は、クライエントによっては残酷な事実であり、自己嫌悪も過ぎれば、場合によっては「自死」を選択してしまう恐れがあります。
「あなたの病は、すべてあなた自身が原因ではなく、一部は悪魔によるものですよ」
この言葉が、人によっては大きな救いになるというのです。
「罪や病を、真正面から受け入れられない場合」
「すべて自分が原因と認識したら、生きる気力を失ってしまう場合」
このようなクライエントには「外部(悪魔)」に一因があると捉えることが、その人の精神の安定を図るには有効である、という解釈です。
その人が「本当の悪魔憑き」でなくても、エクソシストの祈りが「心の救済」になるのなら、それに越したことはない。クライエントの救済を主体とする意見を尊重したいと思います。
ホロコーストは悪魔つきか
映画ヴァチカンのエクソシストで「スペインの異端審問は悪魔によるもの」というストーリーに疑問が抱かれたということを前述しました。
似たものとして、アモルト神父が放ったある言葉が、彼の生前に炎上しております。長くなるので一部引用します。
悪魔は個人に憑依できるだけではありません。ある特定のグループ、世界のすべての人間にも憑依できるのです、たとえば、ナチの党員は全員が悪魔に憑かれていたのだとわたしは確信しています。
これに対しての反対意見がこちら。
ホロコーストに関わった人々自身の罪だ。悪魔のせいにしてはいけない!
その通りなのですが、子どもの頃に「アンネ・フランクの日記」を読み、ホロコーストの残虐性について学んだ時には「ナチス党員は悪魔だ、こんなひどいことをできる人たちは悪魔に違いない!」と率直に感じました。
少し話がそれてしまいますが、皆様に一つだけ問題を出します。
【問題】
ナチスドイツを支持していたのは、
カトリック、プロテスタント、どちらでしょう?
【正解】
カトリック、プロテスタント、どちらもです。
ルター派教会の牧師の中には「ヒトラーの出現は聖なる贈り物であり奇跡」という者もいました。
またカトリック司教の中には「神が我々に彼を遣わされた」と唱えた者もいました。
ただし皆様もご存じの通り、ドイツといえばプロテスタントが圧倒的に多い国です。さらに詳しい回答を添えると。
【備考】
プロテスタントが多め。
ドイツ国内の多くの牧師が、ヒトラーに賛同
ただし、ホロコーストに異を唱えた牧師がドイツ国内に多くいたことを忘れてはなりません。
勇気を以てホロコーストに異を唱えた結果、処刑されてしまった方も多くいます。例えば以前の記事で説明した【ボンヘッファー牧師】は、ヒトラー暗殺計画に加わっていました。【メソジスト教会の典礼派】は、ボンヘッファー牧師を聖人として崇敬しています。
【問題】
なぜドイツの牧師がヒトラーに加担してしまったのか。
プロテスタントには諸派ありますが、ルター派がとりわけ強くナチスを支持したのには理由があります。
【答え】
ルターが他宗教に排他主義で、ユダヤ教批判の激しい人物だったからです。
ルターの残したショッキングな言葉を引用掲載します。
ルター派の方はブラウザバック推奨です。
ルターの「異教徒排他主義」が、ナチスドイツのホロコーストを扇動してしまったことは、高校生の時に読んだ本で知りました。
今回、ご縁のあった著書を読み、想像以上にショックでしたが、歴史的事実として受け止めなければならないと思います。
ルターはユダヤ人を「悪意に満ちた獣、腹黒い輩、胸くそ悪いクズ、害悪、悪魔の化身、豚の糞」と酷評し、「彼らの家は破壊され、荒廃されねばならない。彼らは厩舎に寝泊まりせねばならない」と訴えた。
さらに信徒に「私の親愛なるキリスト教徒よ、あなた方の隣にいる本当のユダヤ人以上に残酷で有害で悪辣な存在はいないことを疑ってはならない」
最後の手段として「我々は狂犬のように力づくで彼らを追い出すだろう」
ルターの死後から長い時間が流れ、これを実際に行ってしまったのが、ナチスドイツです。ナチスは「ルターの言葉を上手く利用した」という解釈もあります。
「キリスト教とホロコースト ――教会はいかに加担し、いかに闘ったか」著者のはしがきによれば、モルデカイ・パルデイール氏はユダヤ教徒とのことです。著者は「他民族の宗教信仰と信心に深い敬意を抱く」と述べています。
本の著者がどの教徒か、推薦者がどの宗派か、というのは常に確認して参考書を拝読しております。
ルターの言葉は悪魔の囁きだったのでしょうか。
それとも彼本人の残した「言葉の罪」なのでしょうか。
ルターが恐れた悪魔
エクソシストがいるのは、ローマ・カトリックです。
プロテスタントにエクソシストはいない……と私はずっと認識していたのですが、映画から興味を持ち、先に紹介した『エクシスト急募』を読んで驚きました。
プロテスタントでも除霊は行われているとのことです。集団除霊的なものもあるとか。ただしローマ・カトリックの悪魔祓いとは異なるものです。
聖公会、ルーテル教会等を除き、一般的なプロテスタント教会は聖人信仰に否定的ですから「聖人の功徳にあやかる」「マリア崇敬」を用いた除霊はしないでしょう。曖昧な表記で申し訳ないですが、プロテスタントの除霊について具体的な記述を見つけられなかったのです。
では宗教改革の元祖、ルターは悪魔の存在を認めていたのでしょうか?
実は人生の折々で「悪魔が自分を見ている」と恐れていたそうです。彼はとても悪魔を恐れており、夜などは元修道女の奥さんに寄り添っていたとか。
悪魔がルターを狙っていたのでしょうか?
ルターの残した言葉を「なぞるようにそのまま実行した」ナチスドイツのホロコーストは、全員悪魔が取り憑いていたのでしょうか。
ルターは何に怯えていたのでしょうか。
悪魔はどこに宿るのか
人は何を「悪魔」と定義するのでしょうか。
前の記事「例外的な聖人崇敬」でご紹介した【ローマ教皇ピウス12世】の言葉をご紹介します。彼はユダヤ人迫害について明確な異を唱えなかったとして批判に晒された人物です。ただし外交的に発言が制御されていただけで、密かにユダヤ人を匿っていたなどの事実が最近明るみにされ、歴史研究家たちによって解釈が分かれます。
ヴァチカンが一声「ユダヤ人迫害」について声を上げれば、歴史は変わったのではないか、影響はあったのではないかという批判は未だに存在します。
2009年にベネディクト16世が、ピウス12世を「尊者」にしたことは世論を騒がせました。
そんな【ローマ教皇ピウス12世】が、ハロルド・ティットマン氏に語った言葉がとても印象深かったので、こちらに引用掲載します。
あなたが望まれるようにわたしが名指しでナチスを非難しドイツは敗北すべきだと言ったとしたなら、ドイツ人はいたるところで私がナチスのみならずドイツ時代の敗北に寄与したと感じることであろう……私はドイツの信仰をもつ多くの人を阻害させる危険を冒すまねはできない
この発言についても賛否両論分かれます。それでも教皇はホロコーストについて認知していたのだから「強力に行動すべきだった」と。
私は「ドイツの信仰をもつ多くの人を阻害させる危険」という言葉がとても気になりました。「ドイツ全体が悪だ!」と教皇が発言してしまったら、ドイツ国内で「ユダヤ人を助けようと懸命に動いた人、ナチスに反対した聖職者」をも否定・排他していまいます。
何を「悪」と定義するのか。
何を「正道」と説くのか。
何を「排他」するのか。
言葉に神が宿る、というのなら、何かを「批判・排他」する時には、口から発せられるもの、後世に残るものに慎重になる必要がありますね。
昔から「言葉には神が宿る」といいます。
同時に「言葉には悪も宿る」のです。
日本にも「言霊信仰」が存在します。
東洋西洋問わず、言葉に「神も悪魔も宿る」と私は考えます。
物書きの一人として「筆の重さを忘れてはならない」と自戒を唱え続けていこうと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。
【つづく】
ちょこっと宣伝失礼します。
この記事の表紙に用いているのは、私の作品「リンドバーグの救済」の悪役ダーシーです。悪魔のように口達者で、とっても嘘吐きな憎まれっ子です。
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