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【西武ライオンズ 今日の見どころ】カウントダウン「LEGEND GAME 2024」#22 笘篠誠治編

3月16日(土)に開催される、西武ライオンズ初のOB戦「LIONS CHRONICLE 西武ライオンズ LEGEND GAME 2024」まで、残り1ヶ月あまりとなりました。ここでは出場予定のライオンズOBたちの、一味違ったプロフィールを紹介していきます。

笘篠誠治(とましの・せいじ)

内野手・外野手 右投げ・右打ち 1964年6月22日生まれ
ライオンズ在籍:83~97年(選手)、98~2007年(コーチ)
通算成績:884試合 1491打数 381安打 打率.256  18本塁打  121打点  90盗塁
背番号:40(83~86年)、4(87~97年)、79(98~07年)

上宮高2年生のとき、春のセンバツでベスト4。3試合で計10打数5安打1本塁打と活躍する。主将を務めた3年時の甲子園出場はならなかったが、俊足・巧打・巧守のそろった大型内野手と評価され、82年ドラフト2位でライオンズに入団する。

高卒1年目のシーズン、6月28日ロッテオリオンズ戦で、1度だけ1軍の打席に立ったのだが、これは「2死になって、石毛(宏典)さんや立花(義家)さんから『どうだ、打ちたいか』と聞かれて『ハイ』と答えたら、『ヨーシ、見てろよ』と、ヒットを続けてくれた」おかげで、巡ってきたものだった。結果はセンターフライだったが、「野球をやるからには、1軍でなければ」と、深く心に刻み込んだ。

入団3年目の85年、カリフォルニア・リーグ「サンノゼ・ビーズ」に野球留学中、死球が顔面を直撃。右頬を複雑骨折するアクシデントに見舞われる。異国で2ヶ月間、流動食生活を強いられたのだが、のちに「あの苦しみを乗り越えたから、どんな練習も苦にならない。あのケガのおかげで、いまの自分がいる」(99年 西武ライオンズファンブック)と語るほど、大きな転機になったという。

言葉どおり、翌86年にプロ初安打、初本塁打をマークして頭角を現すと、続く87年は、セカンドのレギュラーだった辻󠄀発彦が開幕前の最後のオープン戦で、死球により右手人さし指を複雑骨折。長期離脱をするなか、笘篠は106試合に出場、7本塁打、14盗塁する活躍で、その穴を埋めてみせた。

工藤公康を最年長に、1年違いで順に高卒ライオンズ入りした笘篠、渡辺久信、大久保博元、清原和博は「西武5兄弟」と呼ばれるほど仲が良く、プライベートでもよく行動を共にしていたそうだ。

「まずは試合に出ないことには話にならない」と、代打、代走、守備固め、あらゆる役割に対応するため、打球判断や走塁技術に磨きを掛けた。相手の先発が左投手のときは、レフトでスタメン起用されるケースが増えていき、プロ12年目の94年から登録を外野手に変更している。

また、野茂英雄(近鉄バファローズ)と相性が良く「野茂キラー」としてスタメンに抜擢されては、たびたび快打を放って起用に応えた。

じつは笘篠が独自に野茂の投球フォームの癖を見つけて、投げる球種がストレートかフォークか。分かって打席に立っていたそうだ。野茂が渡米するまでの5年間で、通算の対戦打率が.276。合計24安打している。このヒットの数は、清原(42安打)、辻󠄀(40安打)、平野謙(25安打)に次いで、球界全体で4番目に多い。

92年から3年連続で100試合以上に出場。規定打席に到達したシーズンはなかったが、キャリアのなかで投手と捕手以外、内外野すべてのポジションに就いている。95年からは選手会長も担当した。

上宮高では一緒にプレーしていた2歳下の弟・賢司が、89年にヤクルトスワローズ入り。92年の日本シリーズでは、ライオンズとスワローズとの「兄弟対決」が実現する。このときはライオンズが4勝3敗で日本一に。逆に翌年はスワローズの4勝3敗と、互角の勝負で終わっている。

引退翌年の98年から、ライオンズで10年間コーチを務めたあとも、セ・パ4球団に渡って、コーチとして合計12年間ユニフォームを着た守備・走塁のスペシャリストだ。

笘篠 誠治 年度別成績

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