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IV. 黙示録の7シリーズに秘められた預言⑤ ラッパと鉢の間(2):教会の敵の正体と戦法の秘訣(13-14章)

12章では、神の民としての教会が、戦いを誰に、何故挑まれているのか――悪魔ともサタンともいわれる敵対者の存在とその天での敗北、地でのあがきが明らかにされました。(平たく言うと、どうせ滅びるなら皆諸ともに… というところでしょう。)同時に、戦いの只中での確かな神の養いも示唆されます。その攻防の中で、敵の繰り広げる手法がどのようなものか――ヨハネとその仲間(教会)が直面する苦難の背後にあるのは何なのか――また、それに教会はどう対処すべきかが、13章では明らかにされます。(そして14章では、その勝利を担保し、さらに展開する術として、礼拝、宣教、選択が挙げられます。)

(前回(IV④)で提示した図と同じです)
2つの「大きなしるし」
➊12:1, 3(12-14章)※まだここです   
➋15:1(15章~ 7つの鉢)       

さて、敗北者サタン――海辺の砂の上に立った竜(12:18)――は、何をするというのでしょうか? 

敵対者サタンの戦法(13章)

13章では、サタンが手先を繰り出し、手を変え品を変え、教会を攻略しようとする様が描かれています。

先に補足すると、この戦いの下敷きとなっているのは、捕囚期の預言者ダニエルの預言(7-12章)であり、捕囚期には秘密にされ封印されたこと(ダニエル12:9)が、ここに明らかにされるのです。まさにダニエル書12:9-10で言われるように、「一時と二時と半時」の終わりの時を通して(ダニエル12:6-7//黙示録12:6; = 1260日 12:14; 11:3 = 42か月間 13:5; 11:2)、人々は分かたれていくことになるのです(cf, 黙示録22:10-11)。

ダニエルよ、行け。
これらのことばは終わりの時まで秘められ、封じられているからだ。
多くの者は身を清めて白くし、そうして練られる。悪しき者どもは悪を行い、悪しき者どものだれも理解することがない。しかし、賢明な者たちは理解する。

ダニエル12:9-10

 この戦いでのサタンの策略は、①露骨な力を象徴する海の獣(13:1-10)と②騙し誘惑する地の獣(13:11-18)に大別されます。いずれの獣もおどろおどろしいものです。けれども、ここではその本質を風刺的かつ嘲笑的に暴きます。そして、それらの策略への対処として提唱されるのは、一方で忍耐と信仰(12:9)、一方で知恵、理解(12:18)です。(どちらも、現代では軽んじられている特性に思われるのは私だけでしょうか?)

これらの獣(とその頭・角)についても、12章の竜の王冠や角と同様、誰(どの国)を指すのかという議論が幾度となく繰り返されています。その議論では、それらの登場は先の話として探る傾向もみられます。しかし、黙示録は、まさに今、またこの先(キリストの再臨まで)教会が直面する敵、またその戦いを活き活きと(!)描いています。そして、私たちもまた同じ戦いを挑まれてるのです。これらの獣の登場が将来のことであるかのようにとらえる(教える)のは、まさに、今開かれている封印を再び封じ、証しの機会を先送りしようとするもの――非常に残念なことです(cf. 黙示録10:11
; 22:10)。

 ①第一の海の獣(13:1-10)

第一の海の獣(13:1-10)は、サタンを象徴する竜の模写で(ただし、王冠は、竜の場合と微妙に異なり、7つの頭ではなく10本の角にあります )、権力や支配を象徴する。この獣は、おどろおどろしいとはいえ、所詮、ダニエル7章に描かれる4頭の獣を継ぎ接ぎした、ちぐはぐなものとして描かれ、統一感はありません。 そして、致命的な傷とその治癒(13:3)は、驚くべきものではあるものの、まことの神の御力による子羊の死と復活とは到底比べ得るものではありません。また、この獣は、地において、神とその名、また神に属する者たちを冒涜するものの、その勝利と支配の権威は神が与えたもの、つまり許された中でしかないのです(13:5-7; cf. ダニエル12:7; 8:24)。

ここに封印されてきた逆説的な子羊のまことの勝利が隠されているのですが、死をも克服するまことの神の力を知らない人々は、(表面的な)治癒に驚き、神ではなく竜、また獣を拝みます。しかし、そのような人々の獣への賛辞――「だれがこの獣と比べられるだろうか。だれがこの獣と戦うことができるだろうか。」(13:4)――もまた、所詮、まことの神への礼拝、賛美をもじるものにすぎません(箴言30:4; イザヤ40:12-31; ローマ11:34-36; 第一コリント2:16)。 そのように獣・竜へ傾倒する人々の中にあって、教会、聖徒(キリスト者)たちは、獣ではなく、屠られた子羊とその勝利に倣う者として、忍耐と信仰をもって勝利するよう招かれているのです。

13:9-10で引用(修正)されたエレミヤの預言(エレミヤ15:2)は、最悪と想定される殉教の覚悟を読み手に迫ります。そのことにより、漠然とした不安を解き、まことの心備えを助けます。その目的は、キリスト者自身の清め、勝利のみではありません。世界のあらゆる人々の只中にあって、神と子羊を証しし、死と復活の力にあずかる人々、そして、同じように神の刻印を受け、白衣を与えらるべき人々を招くためでもあるのです(cf. 11章の二人の証人による証し)。遡って思い起していただきたいのですが、6章の第5の封印で示唆される僕の数、また、7章の神の刻印が押される人々の数が満ちるためにも、教会は証しに生きるよう召されているのです。

 ②第二の地の獣(13:11-18)

一方、第二の地の獣(13:11-18)は、海の獣の傀儡的な存在であり、宗教や経済といった周辺的な権威を象徴します。何より注目すべきは、この地の獣が、子羊のような2本の角を有することです。これは、実際の礼拝の対象となる屠られた7つの角と7つの目をもつ子羊(5:6)とは、同じ羊であっても似て非なる姿です。姿だけではありません。まことの子羊が、真理の言葉とその証しをもって、まことの神の礼拝へと導くのに対し、この地の獣は、しるしや購買(刻印)によって、第一の獣とその像――引いては、竜に象徴されるサタン――の崇拝へと巧妙に誘い、最終的には偽りの神に絶対的な忠誠を強いるのです。

この獣による手ないし額への刻印は、神の民のしるしを打ち消すものとして描かれています(出エジプト13:9, 16; 申命記6:8)。また、白衣を与えられた者たち、すなわち子羊の血によって贖われた者たちに押される神の刻印と対対極をなします。後者は礼拝の対象である子羊自身が犠牲を払い、神のもとでの平等をもたらすのに対し、前者は人々を囲い込み、分断と格差をもたらし、犠牲を強いるのです。そして、地でまやかしの勝利を煽るのですが、天から見ると、実のところ、それは滅びへ通じる偽りの勝利にすぎません。

この地の獣の力は、日常生活の様々な領域――娯楽、商業、ありとあらゆるプロパガンダ――に働くもので、巧妙かつ狡猾に、人々を惑わし、縛り、まことの神と子羊から引き離そうとします。その力は、今も変わらず、私たちの日常に潜み、キリスト者は知恵と思慮を求めるよう奨励されています。そして、この地の獣の戦略に対しても、教会(キリスト者)は、知恵、理解と熟考により対処可能なのです(13:18)。

 なお、この獣の数字である666が誰を指すかは、数字を文字で表すことの逆算(ゲマトリア)により、様々な答えが提供されてました。しかし、キリスト者への迫害の残虐行為と復活伝承が流布していた皇帝ネロ、ローマの化身を指すと考えるのが妥当でしょう。また、神と御子と聖霊とが完全数の7を並べて777とするなら、666は、サタンと海の獣と地の獣が、神と御子と聖霊にとってかわろうとするもののすべてにおいて足りないという残念な存在であることを、嘲笑的に示唆するものと見ることができます。それは、ヨハネと当時の教会にとってはローマでしたが、それ以前はバビロンであり、続いては同じように権力を振るい、宗教や経済、またその他の宣伝等で、まことの礼拝の対象である神ではなく、神ならざるものを崇めさせ、支配、収奪しようという力を象徴しています。(それらは、7や10の頭や冠の数が示唆するように、この歴史が続く限り、究極の敵他者であるサタンが滅ぼされない限り、次々と台頭しては競争し、ついには滅び去るのです。)

 これら獣との戦いを通して、まことの神は誰なのか、また、まことの勝利とは何なのか――問いかけられています。勝利の約束は、すべての教会に対して与えられています(2-3章)。そして、幻の初めに、終末の勝利は、子羊が屠られたことによって明らかにされ、獲得されていることがはっきりと記されています(5章)。その勝利を、この地に残されている教会が、どのように得ていくのか――誰にどのように従っていくのか――が、ここへ来て改めて問われるのです(cf. 6:1)。この終末の勝利は、人の力や思惑では決して得られるものではありません。ただ、天の声、御霊の語りかけに耳を傾け、忍耐と信仰、知恵を働かせることによって、可能なものとして約束されています。そして、そのように、神ご自身と子羊なるキリストが、教会を招き、勝利を得させるべく戦ってくださっている――そのことを礼拝をとおして味わい知っていくよう、天を仰ぎ続けるよう、今の時があるのです。

天との呼応、天から地への声、地での選択(14章)

14章では、12-13章で記される獣らとの戦いへの勝利の秘訣が3つ与えられます。礼拝(14:1-5)、宣教(14:6-13)、選択(14:14-20)です。

何にもまして大切なのが、最初に挙げられる礼拝で、それは単に地で神を覚えるということではありません。礼拝とは、天ですでに繰り広げられている現実に呼応することであり、子羊により始まった新しい歌に参与することに他なりません(4-5章、7章)。続いて挙げられる宣教は、礼拝から派生するもので、何を告げ知らせるのかというと、やはり第一はまことの神礼拝への招きです(14:7)。続いて、警戒すべき敵の顛末――裁きに他ならない(続く裁きの幻の予告)――であり、その展望故の悔い改めと信仰、忍耐です。選択による報いを見越して、今を生きるのです。世の中に様々なニュース、またそれらの解説が溢れる中、確かな、変わることのないニュースをいかに告げ知らせることができるのか――ここにも天からの声なしには難しいことです。そうして、最後に、天から地への刈り入れの幻が提示され、どう刈り入れられたいのか、選択が迫られているのです。

以上をもって、開かれた巻物の最終局面、7つの鉢の幻へと進みます。

(前回(IV④)で提示した図と同じ、また再掲です)
2つの「大きなしるし」
➊12:1, 3(12-14章)
   ➋15:1(15章~ 7つの鉢)
     

続く鉢の幻では、もはや猶予はありません。第5の封印が解かれた時に「いつまでですか」と待ち望まれた時(待っているようにとされた時を経て)、第6の封印が解かれて明らかにされた「神と子羊の怒りの日」の到来です。ラッパの幻の中で予告された第3つまり最後の災いでもあります。神を知らない人々の多くは、神の前に悔い改め、救いを受けるよりも、神を呪い、否定するようです――サタンとそれに従う獣たちに従っていくということでしょう。繰り返しになりますが、そんな最終に至る前に、教会はどう備えるのか、神の提示する歴史の中に自らを位置づけ、子羊によって贖われた神の民としての意義と召しをもって、まことの勝利を得るように、礼拝と預言に与るように――漸進的に幻が提示されてきた、また今なお提示されているのです! 主をお迎えし、礼拝に与り、預言に耳を傾け、神とその約束から引き離そうとする敵対者に屈することなく、惑わされることなく、子羊に倣って勝利を治め、約束の新天新地へ――願わくば、ともに進ませていただきたいと心から願います。
 

【補足】以下、思い立った時に、ポチポチ補足しています。脈絡を気にせずご参照ください。

  • 掲載した画像について:典拠は以下のとおりです。(念のため申し添えると、画像のもととなるサイトの記事にはちゃんとあたっておらず、その内容に同意するものでは必ずしもありません。)

◆トップ画像
https://readingacts.com/2020/06/05/a-dragon-with-ten-horns-and-seven-heads-revelation-131-2/

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