V. まとめ
7シリーズの3つの幻の合間に挿入された幻をとおして、想定された読み手である教会が、キリストにあって勝利を得るために、知るべき黙示的預言が明らかにされました。鍵となるのは、7シリーズに隠された啓示の幻を受けて、そのメッセージを聞きとることができるか?(といっても、それは、旧約聖書で語られたことの他に、何か特別な知識がないと見えない、分からないものではないでしょう。)改めて、内容を振り返ってみましょう。
7章では、教会の救済史的意義づけがなされます。7つの封印が解かれ、終末の預言の内容が記された巻物の内容が、ラッパと鉢の幻をとおして明らかにされる前に、その巻物の内容を受ける教会――キリストに倣って勝利を得るべき教会――とは、どのような存在であるのか? 教会の救済史的意義づけがなされます。終末の時、キリストにあって世界中から贖い出された神の民――イスラエルに託された召しが成就した姿こそ、教会なのです。
10-11章では、その教会に託される召しが提示されます。キリストにあって、終末の時が明け、最終の時に向けて備えをする今(ラッパが吹かれている時、つまり、天の幕屋に教会(神の民)の祈りが充満し、神が鉢をもって応じる前!)、教会は何を果たすべきなのかが描かれます。それは、礼拝と証しに集約されます。まず、礼拝する場、そして礼拝する者たちは、必ず守られるとあります。地での礼拝は、4-5章に描かれる天での現実――まったき礼拝であり、全被造世界に拡がらんとする礼拝――に呼応するものであり、地でどのようなことが起ころうとも、守られると約束されています。そこで受けた内容、明らかにされた預言を、教会は世にあって証しし、人々に告げ知らせるのです。たとえ、世にあって、教会が迫害に直面しようとも! そのようにして、教会、聖なる者とされた人々は、ますますきよめられ、整えられていくというのです――ますます逆に向かう世人らの只中にあって、です。
12-14章では、最終局面へ向けて、教会の戦うべき戦法、備えが明らかにされ、教会は忍耐と知恵をもって備えるように奨励されます。それを受ける手段もまた礼拝であり、宣教であり、それに応える営みです。
隠されていた預言――教会の意義、そして果たすべき働き、そうして勝利の秘訣――が明らかにされ、ついに最終局面である鉢の幻へと移ります。
先の投稿で記したように、鉢の幻に至っては、合間の挿入はもはやなく、第1から第7まで、まさに矢継ぎ早に災禍がもたらされます。そして、封印やラッパの幻でかけられたような被害の制限も、もはやかけられることはありません。第6の封印が解かれて明らかにされた「その日」の到来なのです。
7つの鉢の結果/目的、そして招き!
7つの鉢、引いては3つの7シリーズの最終局面である最後の災い――その果てには何があるのでしょう? その展望が17-22章に記されています。
”大バビロン”はついに滅びます。人の歴史の初めから、人を誘惑し、神とその祝福から遠ざけ、欲、罪、そして死へと人を追い遣ったサタン(12:9; cf, 創世記3章)――そんなサタンに惑わされ、騙され、操られ、互いに持ちつ持たれながらも、妬み競う世の支配は終わりを迎えます(17章)。そんな世の支配に便乗してきた者たちは、その滅亡に驚愕し、うろたえ嘆きます(18章)。
けれども、裁きが神の願うところ、究極の目的ではありません。神が地に臨まれる時、裁きは避け得ないでしょう。なぜなら、神のまったき聖さは、聖くないものとは相いれないからです。(炎を前に、塵芥が燃え尽きるようなものかもしれません。)そんな聖い神が願われることは、子羊なるキリストの贖いによって義とされた者たちが、”花嫁”として主を迎えること(19:1-8)。そうして、地が再び神のものとされること――まったき祝福、栄光のうちに、人々が喜び集うこと、まことのいのちである神のうちに、人々がいのちを回復し、神とともに住まうことなのです(21-22章)。
その究極の様が、21-22章に描かれる新天新地、新しい都です。そこに2-3章で勝利を得た教会に約束された賜物が見出される――つまり、教会(引いてはすべての人)にとっての”約束の地”がそこになるのです。その様は、創造の初め、エデンの園への回帰ではありません。新天新地は、単に園としてではなく、人が歴史をとおして築き、生業を営んできた”都”として描かれています。人の都は、”大バビロン”の前に、創世記11章のバベルに象徴されるように、罪と切り離してとらえることは難しいように思われます(cf. also 創世記4:20)。けれども、新天新地では、神にあって人が経験してきた善い業もまた贖われる、あるいは聖なるものとされるのでしょう。そして、礼拝としての生業(生業としての礼拝)がとこしえに続く場(領域)ともとらえられるでしょうか――まさに5章で天で巻物が開かれたことから、新しい歌が捧げられ、すべての被造世界へととこしえに増し拡がっていくように。そんな新天新地、新しい都の麗しさについては、決して語り尽くせるものではありませんが、様々な媒体で、すでに多くのメッセージが語られ、書物が記されていることでもありますので、またの機会とさせていただきます。
ここでは、以下2つを挙げることにより、黙示録の礼拝への招きに、改めてともに耳を傾けたいと思います。
(1)最後の裁きと救いの幻のいずれも、まことの神を礼拝せよとの招きをもって締めくくられています(19:9-10; 22:6-9)。圧倒的な幻、展望は、ともすれば、それ自体ないしそれをもたらす媒体へと私たちの思いを向けさせます。けれども、裁きと救いを正しく理解し、また待ち望むのは、他の誰でも何ものでもない、神への礼拝という文脈の中でしかあり得ないのです。神を礼拝する中でこそ、地を超えて、天の現実とつながり、天の地に成ることを最後の時に先んじて知るのです。
(2)最後の裁きと救いを分けるのが、再臨のキリスト・イエス(19:11-16)であり、それに続く最後の支配、戦い、裁きです(19:11-20:15)。この一連の聖書箇所については解釈の分かれるところで、私自身の理解のお分かちはまた別の機会とさせていただきます。”さわりだけ”でしたら、以下ご参照ください。
このキリストこそ、勝利を治めたユダの獅子であると同時に屠られた子羊であり、封印された巻物を受け取り開くことのできる方であり、救いの新しい歌をささげるべきお方です(5章)。天では、神と子羊なるキリストへの礼拝がすでに始まり、今や全被造物に及ぼうとしています。一方、黙示録の最後では、キリストはすぐに来ると語られ(22:7, 12, 20)、キリストを招く奨励をもって締め括られます(黙示録22:20-21)。つまり、キリストを迎えることこそ教会の礼拝であり、その中で教会はキリストの定義される勝利を知り、今はまだ世にあって、キリストに倣って戦い、勝利を得て、約束の新天新地に入るよう導かれるのです。
ヨハネを通してその仲間たちに奨励されたように、今、私たちもまた、御旨にかなった礼拝をおささげすることができますように――世々の聖徒らとともに、キリストを迎え、天の現実を地にあって映し、地を超えて天の御座に与るものとされますように。キリストにあるまことの勝利をこの地に証しすることができますように・・・ 天がこの地に成就するまで! 祈りをもって、この度の黙示録の投稿をひとまず終えたいと思います。
【補足】
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