II. 黙示録の幻(4-22章)の構成(3)7シリーズ×3の後(17-22章)
黙示録の幻の本体(主要部分)には、第1から第7で括られる幻が3セットあることは、1から10まで数えることができる人なら、誰しもが追うことのできる事実です。
その前、4-5章では、壮大な天での現実(いにしえからとこしえにささげられる神への礼拝)、そして、子羊によって天の礼拝が全地へと波及している様が描かれます。その過程で起こる(起こっている)こと、そしてその中で教会が耳を傾けるべき預言のメッセージが、3つの7シリーズを通して明らかにされます。
ここでは、先取りして、ものすごくざっくりになりますが、7シリーズの後に描かれる幻、それらの幻の帰着について記します。(黙示録が繰り返して読まれるよう記された文書であるということを踏まえつつです。)ここに、4-5章に描かれる天が地に成就する究極の幻が提示されているのです!
大淫婦と花嫁:対照的な幻
17-21章には、並行するように、対照的な2つの幻が描かれます。いずれも、7シリーズの幻の最後である7つの鉢の7人の御使いによってもたらされる幻です。これらの幻が、7シリーズを総括するものだということを念押しするようです!
先の投稿でも述べましたが、いずれも「ここに来なさい」との御使いの招きを受けてのことですが、幻が提示されるのは、ヨハネが「御霊によって」啓示の場への連れて行かれてからのことです。この「ここに来なさい」との招きは、長い長い幻の初め、4:1で受けた「ここに上れ」という招きを想起させます(cf. 11:12)。そして、初めでも、ヨハネは「御霊に捕らえられた」ところから、幻を目にしました(4:2)。
「ここに」という招きは、黙示録の幻を通して、そうあることではありません。他では11:12で「二人の証人/預言者」が受けるだけです。証しの故に、主と同じように殺された後、主に続いて復活させられ、招きを受ける場面です。さて、この二人とは誰か!? それは後述、その場が来たらに譲ります。
また、ヨハネが「御霊によって(in the Spirit)」に相当する状態に導かれるのは、黙示録では、この4章の初めとここ17:3; 22:10 のみです。(ちなみに、霊ないし息と訳される単語は、他でも出て来ます。必ずしも、良いものではありません(1:4, 10; 2:7, 11, 17, 29; 3:1, 6, 13, 22; 4:2, 5; 5:6; 11:11; 13:15; 14:13; 16:13, 14; 17:3; 18:2; 19:10; 21:10; 22:6, 17)。御霊の他にも、世には諸々の霊があって、人の内に入って、その心を奪還しようとするようです。ただし、最初と最後、また途中でも、主の御霊が諸々の霊を圧倒するのです。)
この終盤で、招きを受け、御霊に導かれたヨハネに示されるのは、一方で大淫婦であり、他方で花嫁です。詳細は後に(7シリーズが終われば!)記すとして(といっても、どうぞ時を待たず、それぞれを読み、味わってください!)、それぞれが象徴するのは、大バビロン(悪に操られた世/人の支配)であり、新しいエルサレム(子羊なるイエス・キリストの花嫁として整えられた神の民)です。前者は地の底から操作され、後者は天から降ります。いずれの終焉にも他方が垣間見られますが(19:1-9; 21:27; 22:15)、それぞれ最後は、神の前での裁き(敗北)と救い/贖いの完成(勝利)です。
実のところ、大淫婦とキリストの花嫁、どちらの食卓/祝宴も、今すでに開かれています。私たちは、何を見聞きし、何をどう求め、どちらの食卓/祝宴に与っているでしょうか? また、どちらに仕えているでしょうか?? 折々、自らに問うてみないとな・・・ と思わされます。
礼拝への招き、証し/預言の召し
ヨハネが見せられた幻は、いずれも圧巻だったでしょう。御使いが一連の幻を提示し終え、語りかけると、ヨハネはひれ伏して御使いを拝もうとします。(私自身、素晴らしいものごとを見せてくれる、聞かせてくれる人がいたら、ついついその人を崇めたくなりるものです。天の一端でも垣間見させてくれようものなら、神と並べ、”宗教”として仕立て上げることもあるかもしれません💦)しかし、御使いがヨハネに命じるのは、御使いではなく、他の何ものでもなく、ただ神を礼拝すること、そして神が語られる言葉、預言を証しをすることです。
神と小羊への礼拝は、冒頭の幻(4-5章)で示された天の現実に加わること――その場で礼拝をささげる幾千幾万の御使いらとともに(4:11-12)――であり、贖いを成し遂げ、巻物の封印を解いた子羊なるイエス・キリストを地に迎えることに他ならないのです。私たちが、キリスト・イエスにあってささげる礼拝も、このすでに開かれた天に通じるものなのだと、改めて心してありたいものです。
裁きと救いを分けるキリストの再臨
ものすごく大切なことで、キリスト者が待ち望むことではありますが、ここでは極々簡単に・・・ 上記で記した大淫婦の裁きと花嫁の完成の幻の間には、それらを分ける幻が提示されています。キリストの再臨から最後の審判への一連の幻(19:11-21:10)です。
この17-22章について、先にも、ざっくりですが、投稿しているので、よろしければ、以下よりご参照ください。
これらの幻の時系列は、私には分かりません。けれども、何が先で後で、どうであっても、確かなことは、イエス・キリストが再び来る時には、大淫婦と花嫁の行く末が明らかにされるということ! 今のようなグレーゾーンはなくなり、闇に潜む力は淘汰、一掃されるということです。騙され、操られてきた世の支配(「いつまでですか!?」という嘆き)はついに終焉を迎え、罪とその結果である死も消滅し、神の臨在、栄光のうちにいのちが満ち溢れるのです。イエス・キリストがその犠牲によりすでに勝利を治め、勝利へと教会を(主の民に連なるべく人々を!)導き、今なおともに戦い、担ってくださっているのです。戦いがいかに激しくとも、勝敗はすでに決まっている! 来るべき主を仰ぎ見て、今私たちがそれぞれ置かれた場で主を迎え、主とともに(主に倣い)勝利の道を歩むことができれば、何と幸いなことでしょう!
その勝利を治めるべき戦いとはどんなものか――何が起こっていて、敵はどのように仕掛けるのか、教会は何に耳を傾け、何を目当てとすべきなのか? 次回からは、4-5章と17-22章に挟まれた7シリーズの幻をたどります。
【補足】以下、思い立った時に、ポチポチ補足しています。脈絡を気にせずご参照ください。
大淫婦と花嫁の幻を見るためにヨハネが導かれた場は、それぞれ荒野(17:3)であり、大きな高い山(22:10)でした。ある意味で、日常に忙殺されてしまっては、見えなくなる幻なのかもしれません。日常からすると、大淫婦が象徴する人/世の支配は、日々の必要を賄い満たすものであり、快楽をもたらしてくれる現実――まさに18章で人々が言い表すように! 一方、花嫁のあり様は、人/世の中にあっては、目に留まらないようなものでしょう。天からの視座からそれぞれのあり様を見極め、その顛末を見定めるためには、時に”離れる”こと――そこから改めて召しに応えていくことが求められるのでしょう。
掲載した画像について:画像、どうしても何だかなぁ… という感じは否めません。絵の善し悪しではなく、私が脳裏で描くのは何か違う。(といっても、私がその脳裏にあるものを外に出せるかというと、それはできないのですが💦)それでも、視覚的な提示を・・・ 典拠は以下のとおりです。著作権侵害があれば、お知らせください! 念のため申し添えると、出典元のサイト記事にはあたっておらず、私の賛否は何とも言えません。
◆大淫婦(大バビロン、世の力の権化)
https://www.thetrumpet.com/enlarge_image?data=eyJpZCI6IjE3MDc3IiwiY2FwdGlvbiI6IkJlYXN0IG9mIFJldmVsYXRpb24g%0AMTciLCJjcmVkaXQiOiJHYXJ5IERvcm5pbmcvVHJ1bXBldCJ9%0A
◆花嫁(教会)
https://www.pinterest.jp/pin/342484746656258889/
https://smoodock45.files.wordpress.com/2020/05/bride-of-christ.jpg?w=379&h=505
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