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神さまが引き受けてくれた僕の理不尽
世の中で理不尽なことが起こると
「神様は理不尽だ」なんていってしまう
僕(世間)ですが、
今日は神さまご自身が私たちのために
それよりももっともっと理不尽な苦しみを引き受けてくださったことを共に覚えれたら幸いです。
話は変わりますが、例えばあなたが気を利かせて
誰かにイイコトをしたのに、
それが相手にとっては不快に感じ取られたり
タイミングが違うと言ってむしろ怒られた
ことはないでしょうか。
「やらないでほしかった」
とか、「そうじゃないんだよーー」と言われたり。
なんだかこちらのせっかくの思いやりを踏みにじられたような気持ちになったり、はたまたこちらの優しさを受け取ってくれなかったことに対する怒りの感情が湧いてきてしまう。なんてこともあるかと思います。
ここでふと私は、神様と僕たちの関係について考えさせられました。
神さまが受けた理不尽ってどれほどだろう。
と。
神さまは完璧で正しいお方です。間違いも無ければ、タイミングを外すこともなく、完全なお方です。
また無償の愛で愛して下さる、私たち一人ひとりの創造主なる神さまです。
しかし、イエスさま(救い主)は、
全人類が知っているように十字架で死罪となって
殺されたのです。
イエスさまは父なる神様のひとり子です。
親からしてみたら、
ほかの人の罪のために、自分の愛する子が
代わりにその罰を受けて死ななければならない。
そんな理不尽なことはあるでしょうか。
自分の息子が死ぬことで、
その人の罪がゆるされる。
そのために自分の息子が死んだ。
この父の傷と苦しみはどれほどだったでしょうか。
自分の子をささげるほどに
父なる神さまは私たちを愛してくださっています。
神さまはイエス様だけでなく、
私たちをも子として愛してくださっているからです。
キリストはどうでしょう。
イエスさまは私の罪のために死なれました。
この事実以上に、
何が私を罪から救い出すでしょうか。
救いを得るために必要な代価はすでに
十分過ぎるほどに支払われたのです。
イエス・キリストは、ご自分の命よりも
私たちを愛してくださった。
だから神様は愛です。(1ヨハネ4:11)
その愛の証拠が十字架上で示されたのです。
「神はそのひとり子を世に遣わし、
その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
私たちが神を愛したのではなく、
神が私たちを愛し、私たちの罪のために、
なだめの供え物としての御子を遣わされました。
ここに愛があるのです。」Ⅰヨハネ4:9-10
私たちは、
私たちの弱さも、不甲斐なさも、欠けも、足りなさも
すべて知っていて、しかもこれからもそうなるだろう
その私をなお受け入れてくださる
神さまに
心を向けてみるのは
何と麗しく満たされることではないでしょうか。
どこにいても、何をしていても神様の愛は変わらず
あなたに注がれ、いつでもその存在を
愛を通し、十字架を通して現してくださいます✨