“立ち返りと静まりによって 、あなたがたは救われます。 落ち着きと信頼が 、あなたがたの力となります。”
イザヤ書30章15節
2020年1月1日元旦、母が兄夫婦もいる中、朝食前に読んでくれた聖句。
実はこの御言葉、もともとあまりピンときていたわけではありませんでした。
十字架✞もイエス様も、福音も出てこないこの御言葉、ただ落ち着いてれば救われる・・・と言っているように聞こえて「??」だったけど、
大事なキーワード「信頼」が入っていることを教えてもらった。
新年の出来事の中で、大事にしたいと思えた言葉だったので、深めて味わってみます。
●イザヤ書って?
イザヤ書は預言書。
イザヤという名前は、「ヤハウェは救い」という意味。
「救いはヤハウェのもの」この名の通り、イザヤは、ユダとエルサレムに対して、救いは、人の知恵、力、権力によるものではなく、主からくるものであることを示してくれています。
メッセージの全体は「主から離れているので懲らしめられるが、最後には癒され、救われる」という流れになっています。
●預言書って?
預言というのは神から与えられた言葉を、使命を与えられた人(=預言者;イザヤ)がその言葉を忠実に記し、残してくれた言葉。
当時の預言者が、好むと好まざるに関わらず、理解できた、できないに関わらず、ただ神の言葉であるがゆえ、忠実に伝えてくれた神の言葉。
だからこそ、歴史を経るうちにその言葉の真実性が明らかになっています。
(だから聖書は素晴らしいと思う!🙌)
預言書、聖書の預言とは、つまり神から、人々に対する、血も注ぐほどの愛と義と聖のメッセージであり、神からの伝言である。
(※聖書の預言を混乱しないで読むために:
⒈拾い読まずに全体の流れの中で読むこと。
2.イスラエルはイスラエルとして読みます。誰に対する預言なのかを書いてある通りに読むこと。)
ここでイザヤは直接イスラエルに対して語っています。
神は、イザヤ書の中でユダの抱える問題を「神の御言葉に対して鈍くなっている。理解が遅くなっている。」と指摘されてきました。
●イザヤ書30章って?
今回、30章15節だけを取り上げましたが、読んでみると、その前後はイスラエルの不義とその結果について書かれています。
イスラエルの不義・・神に頼るべきイスラエルの民が、世の知恵に頼った結果についてちょっとのぞきます↓
❶世の知恵に頼ることの結果は、恥です。(私たちは主と結びついている時、安らぎを与えられています)(イザヤ30:3、30:5)
❷この世の知恵に頼ることによる二つ目の結果は、苦悩です。(イザヤ30:6)
そして、自分が聞きたいように聞き、読みたいように読むようになっています。(イザヤ30:10)
❸そして、世の知恵に頼った時におこる結果の三つ目は、破滅です。
(ここでいう破滅とは、個人的な話ではなく、終末という壮大なこの世に神様がどういうことが起こるかという人類の計画につながる破滅の話ですね。)
↕ ︎↕︎ ↕︎
さて!!そんな中で神は必ずいつも希望を用意してます。
●イザヤ30章15節について
ヘブル語のテキストをもとに逐語的に訳してみると以下のようになるそうです。
「まことに、こう言われた。私の主である神、イスラエルの聖なる方(が)
“立ち返りと静まりによって 、あなたがたは救われます。 落ち着きと信頼が 、あなたがたの力となります。”」
🖋 ここで使われてることば
「立ち返り」「静まり」「落ち着き」「信頼」は名詞(と名詞的用法)です。
動詞は「救われる」と「(力と)なる」です。(「力」について:みなぎる力、増し加わる力、勢いとしての「力」(strength))
⇨名詞の部分を二字熟語で表わすと、「悔改」「静謐」「平穏」「信頼」となります。
(1)「悔改」(conversion)は悔い改めて生き方を変えると言う意味と、アッシリヤに対抗してエジプトと同盟を結ぼうとしている考え(政策)を捨てるように促す意味があります。
(2) 「静謐」(rest)、これは神の前にひとりになって過ごす祈りの生活です。
(3) 「平穏」(queit)、これはどんなことにもあわてない冷静沈着な態度です。
(4) 「信頼」(trust)は、完全に神にゆだねきる姿勢です。
(牧師の書斎より)
この立ち返り、静まり、落ち着き、信頼によって、混乱の世の中であっても、救われ、力みなぎり、力が増し加わるのだ、と。
●いま生きる私たちへ
祝福されている時、恵みを数える時、もちろんあなたは大いに神に愛されています。
祈り、感謝し、賛美しましょう。
個人的な危機にある時、社会的な危機の中で苦しんでいる時、クライシスな状況になった時、私たちはおめでとうございます!!笑 そんな時こそ、神様とのつながりをふかめるチャンスです。愛を知るチャンスになります。
祈り、与えられているものに感謝し、賛美しましょう!(いつでもおなじ^^)
本当は怖い、本当は弱い、本当は嫌だ、そんな思いも含めて、神とともに歩ませていただく時、神様のことをもっと知ることができるのでしょう。
聖書の中だけでない、頭の中だけじゃない
-- 生きた神 -- と -- わたし --
の物語の展開が始まります。
神が生きていることを知り、神との生きた関係が深められていくのです。
私たちを生かし、私たちを誰より、自分自身より知っておられる方から与えられている、神を知るためのチャンスなのです。
(でもわかります、試練の中はつらいですよね。そんなときはともに主にある家族、霊の戦いをともに戦う仲間たち、私たちとともに祈りあいましょう)
もちろん、私たちは色々な努力をします.
心理的な問題なら心理的な勉強、知恵のある人の知恵、病気の時には病気や健康に対する知識と対策、経済的危機なら社会や経済の努力と実行をするわけです。
そのこと自体は、全ての人に神は平等にチャンスを与えていると思います。
でも最終的なところ、その心はどこに結びついているでしょうか。
右手✋にあるのは、神に祈り、神の主権を知り、神が最終的になにより良いものを知っておられると信頼して、神によって実行する自分。
左手🤚にあるのは、私の思い、私の理想、私の願いによって、成されてきた自分。自分の知恵や力、世の知恵・力に頼って進められること。
もしかしたら、右手と左手どっちにも引っ張られながら、足が宙に浮いて、空回りしていることもあるかもしれない。
イザヤのこの箇所から語られるのは、右手にある主の手をしっかりとかたく握り、そして地に足をつけて進め、ということではないでしょうか。
しかしこの違い、クリスチャンにはなかなか見極めが難しいですね。
だって、私は信仰を持っていると、思っているから。
御心だ!と思いたい。
私の願いを、どうか、神よ、叶えてくださいと、心から祈る。
それでいいのですよね。信頼して、繋がっていること。
自分の精錬されていない、未熟で、しかも御心にかなわない汚い思いかもしれないけど、ただそのままに神に捧げていこうという信頼。
そして、落ち着いて、静まって、神のみ声を待つ。
そうすると、神から愛されている人には、知らされるのです。
神が、私たちが個人的に願っていること、それ以上に願っていることがあると、教えようとされている、と。
少しずつ、わかってくることがあります。
・私は、もしかしたら自分が褒められ、高められ、認められたいと願っていなかったか?
・自分の努力の結果だと、思いたかったのでは?
・そして。私は自分の願いが叶わなかったら、信仰がすり減る気がしなかった?
神より、私を優先していた自分を。
信仰は、「自分のため」になっていたことを。
少しずつ理解させてくださいます。
神は、もちろん私たちがこの世でも豊かになることも、幸せになることも、満たされることも願っておられるけど、
それ以上に 天の御国において豊かになること を願っておられると、私は聖書を読んでいて知らされるようになりました。
(まだまだみちなかばです)
そして、神との距離を縮め、親しく真に交わりを持って欲しいということ。
聖書を、御心を、知ってもらいたいということ。主の知恵で、この地上で生きて欲しいということ。
願っておられると思う。
神はこれらの経験を通じて、わたしたちを聖化の過程にみちびいてくれてる。
天には受け入れられないものから遠ざけて守ってくれてる。
叶っていたら、きっと御心から離れていたかもしれない。
神の悲しむ思いから離れて、神の御心の道を選べるように。
もしくは、神に愛されてるからこそ、ますます、用いられるように、試練を与えられた人もいました。
(ヨブもそうですが、きっとそれは、本当に特別な人に与えられるものです。わたしは悲しみの経験を超えたからこそ、ますます用いられている方々を知っています。本当に、すごいことだと思っています。その信仰をもつその人に、神様が信頼して、試練があり、結果として多くの人々を慰める器となり、人々を励まし続けています。悲しみの経験のなかでもますます主に繋がって歩んだ人の生き方、神とのつながり、愛に、心から尊敬し、敬愛しています。)
主が与えてくれる知恵には救いがあります。
その知恵とは、地上の旅路だけに関わらず、永遠に関わる知恵です。
私たちの思いや幸せを、ないがしろにしようという神では決してない。
愛なる神であること、それを揺るがされず信じていることを知っていることも、とても大事です。
もし、私たちのなかに神の愛に疑いを持ってしまう自分がいるなら、その思いも神に捧げて、神の愛がもっとわかるように、体験し、理解できるようにと、祈っていきましょう。
(わたしのこともますます神がわかるよう、祈ってください)
だから、まずはただ、神の知恵を我がものとして、神のみ心をまず歩めるようにと願います。
私たちは「立ち返り」「静まり」「落ち着いて」「信頼」すれば。「救われ」「(力と)なる」
アーメン!!
自分のために生きていた生き方を、主のために生きる生き方へと立ち返り、
神の前にひとりになって過ごす祈りの生活と、
あわてず、恐れず、落ち着いて、
全て神への信頼を告白することで、力を得たいと思います。
それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。
幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。(イザヤ30:18)
主は今も、私たちを手を広げて、私たちを愛そうと待っておられます。
神は、まさに私たちを愛そうと、預言者を遣わしただけではなく、神であるひとり子を、私たちに愛を持って地上に送り、ひとり子を献げるという、あらん限りの犠牲を払ってくださいました。
そして、その上で、全ての最終的な希望と、計画を明かされたのです。
いつも主にのみ、救いがあり、そこに愛があり、そこに全ての神のご計画があるのです。
ハレルヤ、読まれた皆様に、祝福が豊かにありますように。
主に顔を向けて、今年一年も歩ませていただけますように。
♪感謝 in Christ!!
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(皆様一人ひとりが聖書を開き、神とのつながりを、祈り深めるなかで、それぞれの信仰の確信が与えられることを願っています)
下記は、日々の御言葉の学びの感謝を込めて、学びの参考になる関連リンクです
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ハーベストタイム 60分でわかるイザヤ書 https://message-station.net/episode/1736/
ロゴスミニストリー:http://www.logos-ministries.org/old_b/isa30-32.html
牧師の書斎:http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?立ち返って、静かにすれば
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